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頑なに、柔らかく。#言葉の企画



今までで、いちばん難しかった。本当に、ほんとうに、難しかった。



今まででいちばん難しくて、今まででいちばん自分の中で消化し切れていない感じが半端ない。どうやってまとめようか考えて続けて、締め切りが過ぎてしまった。ぐるぐる考えて、話を聞いてもらったりもした。背中を押してもらって、もういっそのこと、そのまま、考えていることを書こうと思えた。


いつも通り長くて、いつもよりかなり重い内容になっていると思います。時間がある、元気な時に、お好きなところだけでも、よろしければ。


言葉の企画2020、第3回講義を経ての感想文です)



図らずとも傷つけてしまう、言葉



終戦の日。敗戦の日。


8月15日は、終戦の日と呼ばれている。しかし、75年前のその日は「敗戦」ではなく本当に「終戦」だったのか?「終戦」と呼ぶことによって美化されてしまう事実、忘れ去られてしまう歴史があるのではないのか?


講義中の阿部さんの話、はっとした。それと同時に、思い出したことが2つあった。



ひとつは、「ブラック企業」という名前が、「黒人差別」を助長するのでは、という意見。


マクニールさん(米ニューヨークから2004年に日本に移住したアフリカ系米国人の作家)は言う。「ブラックという言葉は、黒人差別に使われてきた経緯もある。もちろん英語にも『ブラックリスト』などの否定的な表現はあり、だからこそ私たちは言葉のイメージを変えようと努力しているのに、日本では逆の状況が起きて悲しい。日本人以外は日本語を解さない、と思われている表れかもしれない」




もうひとつは、平和記念資料館の来館時に支払う料金を「観覧料」と表記するのはふさわしくないのでは、という意見。


館内の案内やパンフレットなどにある「観覧料」という表記に対し、被爆者らから「娯楽性を感じる」「残酷な惨状を目にする場にふさわしくない」といった意見が寄せられていた。


これらの意見について改めて検索してみると、似たような記事が沢山あった。きりがないのでこれ以上は載せないけれど、なんだろう、言葉って本当に、恐ろしいほどに、力を持っているんだなあと感じさせられた。



「ブラック企業だなんて名前、黒人差別を助長する!!」
「観覧料だなんて、楽しいものを見せてると思ってるのか!!」



これらの意見について、私はどう思うんだろう。みなさんは、どう思うんだろう。「言葉狩り」(今までは普通に使用されていた言葉などが、一部の人々により不適切だと見なされてタブーとなること。 Weblio辞書)だと言えば、もしかしたら、そうなのかもしれない。



名づけというものは、センシティブなもの
名づけは生命力を与える。
名づけには、「愛」と「敬意」を。


果たして、これらの名前を付けた人に、愛と、敬意と、意志があったのだろうか。


***


ここからは本当にただの、私の想像の話になるのだけど‥。


例えば、ブラック企業という名前を生み出した人。その人は「不当な労働はおかしい、変えるべきだ」という意志があり、「自分を大切にして」という苦しい状況で働いている人々への敬意があったのかもしれない。繰り返すが、あくまで私の想像の話だ。


しかし、悲しい事に、その名前には、黒人への愛と敬意が十分ではなかった。不本意だったとしても、傷ついている人がいるのは事実だ。



ブラックという言葉自体に、罪はない。

問題は、ブラックという言葉を「従業員に不当な労働を強いたり、人権を踏みにじる行為をする企業」を表すネガティブな意味で用いることによって、なぜ差別が助長されてしまうのか。そもそもどうして差別が存在しているのか。そして、その差別を解消するためになにができるのか、ということなのではないかと思う。


そして、その問題にしっかり向き合ったうえで、その時点で可能な限りの最大限の愛と敬意と強い意志をもって新たに名前を付けることも、時には必要なのではないか。もちろん、そこに名前を付ける必要が、本当にあるのならば。



そこに愛と敬意と意志が、たしかに存在するのならば、言葉狩りやポリティカル・コレクトネスの概念を恐れずに名前を付けるべきだと思う。


ポリティカル・コレクトネス(PC):人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。ポリティカリーコレクト。PC。政治的妥当性。(コトバンク)


しかし、逆に言えば、そこまでの覚悟がないのなら、何かに名前を付けるという行為の意味が見当たらないな、と私は思っている。


***


何かに名前を付けるという行為の意味が見当たらない、といった話で、私はずっとモヤモヤしていることがある。それについて書かせてほしい、です。


決して誰かを批判したりするつもりで書いてはいないということを、ご了承頂ければ嬉しいです。「わたしの頭の中議事録」を公開することで、「みなさんはどう思います?」という投げかけになれば嬉しい限りです。



違和感に名前を付けることに、違和感があるんです


違和感:物事になじめないさま、居心地が悪いさまを意味する語。(Weblio辞書)


違和感に名前を付けることに、どういう意志があるのか。そして、どこに/だれにを、敬意を抱けばいいのか。これらが分からないんです。



例えば、私が名付けた違和感。


関心という名の干渉(スキャンダルなどに対して、関心を持つこと=意見を発し干渉する事と捉えている人が多い。干渉せず、そっとしておくことがその人のためになることもあるのではと思う)


(もっと工夫できたでしょ‥と思うけれど、とりあえず例に挙げます。)


これを思いついたのは、最近芸能人のスキャンダルなど対して、積極的に意見(特に批判的なもの)を発信する人が多いなあ、そういう発信を見ていると、なんか心がザワザワするなあ、居心地が悪いなあ(≒違和感)と感じていたから。



きっとこの違和感の正体は、自分では普段抱かないような感情(芸能人のスキャンダルへの批判)を抱き、取らないような行動(批判をSNSで発信)を取る人々への、「理解し難さ」のようなものなのかな。



自分の感覚で理解できる/できないを判断し、そのできない側に存在するヒト、モノ、コトなどに対して「違和感」を感じている。そしてそこに、名前を付けている。

すごく、自分主体だなと思う。


だって、人間って、そんな単純じゃない。

「理解できる/できない」のように白黒はっきりつけられない部分が沢山ある。その白でも黒でもない、グラデーションの部分が必ず存在しているはずだ。

そのグラデーションの部分に、想いも馳せずに、考えも巡らせずに、勝手に自分主体で「違和感」と捉え、名前を付けた自分がいて、すごく反省した。



‥そこから、考えてみたのだけど、分からない。

わたしは、違和感を名付けることに、どういう意志を持てばよかったんだろう?

そして、どこに/だれに、敬意を抱けばよかったんだろう??


***


正直に言います。申し訳ないけれど、わたしは、自分が違和感を抱く対象(=過干渉の人)に、愛と敬意を抱けない。

そういう人もいるんだな、とは思うけれど、それはただの”認知”だ。愛も敬意もない。


私が「過干渉じゃない?」と感じる人々の生活や、置かれている状況、なぜその行動をとるのか、なぜそういう思考を抱くのかなどは、全くもって知らない。知る由もない、と言えばすごく突き放した感じになるが、それでも、やっぱり知らないのだ。

想いを馳せる、考えを巡らせることはできるかもしれない、けれど、愛も敬意も抱かない相手に、想いを馳せるほどの意志が、わたしには、ない。



そういう状況で、半ば無理やりにでも名前を付けてしまうと、名前の持つ力が、悪い方に働いてしまいそうな気がして、こわい。なんだか、暴力的な感じがする。他人の背景を想像もせずに、勝手に「理解できない」と切り捨てて、自分の解釈で名前を付けている感じがする、こわい。



もしかしたら。


「自分はこうならないぞ!もうそれはやめよう!」という類の、意志を込めた名付け、とも考えられるのかもしれない。「自分は決して、『関心を持つ事』と『干渉する事』の意味を履き違えないぞ!!」という決意なのかなあ。これで言うと、愛と敬意は自分に対して抱くのかな?


その意志で言うと、もう一つ考えてることがある。



3分の1の人が感じる違和感って、もはや社会問題?



今回の課題文は「世の中に感じるあなただけの違和感に名前を付けてください」で、伝わりました総選挙の上位の「違和感」は、30票、20票といった沢山の票が集まっていた。

100+αのうちの30とか20は、決して少ない数ではない。そうなったらその「違和感」は、もはや「あなただけの」ではなく、「多くの人が抱いている」違和感、になるんじゃないかな。

それは「違和感」という言葉にとどまらず、もはや「社会問題」なんじゃないかな、とか考えてしまう。おおげさかな‥。


そして、もし、多くの人が「居心地悪いな~~」って本当に感じているんだったら、「じゃあ変えようよ」と思ってしまう。


違和感に名付けをして、「え~わかる!やっぱりみんなもそう思ってたよね!」で終わらせてしまうのは、なんだかとっても、もったいない気がする。もったいないというか「それでいいのかな」って感じ。


「この違和感は自分だけじゃない」という安心感を得て、その人が抱えている”居心地の悪さ”を蔑ろにさせてしまうだけだったら、果たして、そこに名づけをする意味ってあるのかな。


「違和感に名前を付けること」に対する違和感。

この違和感に、わたしは名前を付けることの意味が今のところ見当たらないし、どんな意志を持てばいいのかもわからないし、どこに/だれに愛と敬意を抱けば良いのかもわからない、です。


***


(長いですね。もう少しでおわります。この時点で4500字超えてます。読んで下さった方がいたら、本当にありがとうございます。)


進むための、名前でありたい


いろいろ書いたし、まだまだ考えはまとまらないけれど、一つ思ったのは、名付けが、思考停止を生んでしまったらいけないのかな、という事。


名付けられた、自分の名前。その名前をそのまま受け取って、その名の、その字のままに生きるのではなく、「自分はどう受け止め、どう解釈し、どう生かすのか」と考えること。


ブラック企業という名前に傷つく人がいるなら、さらっとしれっと名前を考えるだけではなくて、「なんで傷つく人がいるのか?」を考えること。


観覧料がふさわしくないというのなら、そもそもその資料館はどういった目的で作られたものなのか?そこにお金を払ってくる人々に、どういう意識を持ってほしいのか?を考えること。


違和感を名付けて終わりじゃなくて、じゃあその「モヤモヤ」の正体って何なの?ほんとうに無くした方が良いモノなの?無くした方が良いなら、どうやったらなくせるの?を考える事。



言葉は生き物であり、名前も生き物だと思う。


名付けられることによって光を当てられ、安心することもある。逆に名付けられることによって、それこそ呪いのように、足かせになってしまうことだって、往々にしてある。



名前を付けるという行為。そこには計り知れない力があるからこそ、ほんとうに慎重に慎重に行いたい。そこに自分の意志はあるのか、十分なは、敬意はあるのか。その愛と敬意の対象は、独りよがりなものになっていないのか。誰かを不本意に傷つけることはないか。



頑固な意志、柔軟な心



看護婦が看護師になり、保母が保育士になり、ステュワーデスがキャビンアテンダントとなり、主婦が主ふになっていった。

きっとこれから、ハーフがミックス/ダブル彼氏/彼女が恋人/パートナーになっていくように、変化が生まれ続けるだろう。


時代の変化とともに、愛と敬意を持つ対象も変わっていくのだと思う。変わっていく、というよりは、増えていく、多様になっていくの方がしっくりくるかな。


言葉は生き物であり、名前も生き物だと思う。



愛と敬意に対する頑固な意志と、変化に対する柔軟な心を、両方持ち続ける人でありたい、そうあるためには、どうすればいいんだろう。そんなことをぐるぐると考えさせられる、第3回「名づけの力」でした。


おわりに


怖いから、繰り返し書いちゃうけど、誰かを傷つけたくて書いた訳ではないのです‥。でも、「傷つかず読んで下さい!」というのは私のエゴで、どう感じるかは受け取り手の皆さんの自由ですもんね‥。はああ難しい。

みなさんが、第3回「名づけの力」に対して、どう感じたか、どう考えるかお聞かせ願えましたら、これ以上に幸せなことはありません。このnoteに懸けた時間も、投稿ボタンを押す時の勇気も全て報われる気がします。

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ありがとうございます。がんばった日の、コンビニスイーツを買おうと思います。