一、青菜 小三治

柳家小三治主任、六月下席夜の部、千秋楽。平日月曜日にも関わらず、仲入りには二階席まで満杯となった。

独特の親密な空気が末廣亭を満たし始める。小三治の興行はいつもそうだ。往年の落語ファンも、知人に誘われ初めて寄席を訪れた人も、そこにいる誰もがその噺家の登場を心待ちにして、どこかそわそわとしている。いつもと同じ、でも特別。そうした客席と高座との絶妙な距離感こそ、名人なるもののひとつの条件なのではなかろうか。

いつものように三味線が「二上りカッコ」を鳴らし、いつもの楽屋の声に送られて、いつもの小三治がひょっこりと高座に上がる。用意されたいつもの湯呑みからゆっくり一口。演目は、いつもの青菜。

「マクラの小三治」などと渾名されるように、小三治のマクラは抜群に面白い。高座に上がると、客席を見回しながら、曰くなんとなく喋っているうち頭の前をすっとよぎった出来事を次々と俎上に載せ、脱線を繰り返しながら笑いを誘う。そうして聴衆の目の前に広げられた様々なエピソードのなかから、その日のネタが徐々に固まっていく。

今回の興行のちょうど真ん中、25日にも末廣亭を訪れたのだが、その高座はこれぞまさに「マクラの小三治」と言うべきもので、客席も沸いた。落語家ではなく噺家と呼ばれることへの愛着から始まり、噺の種類について語るうち、夏といえば怪談と彦六師匠の思い出へと話題は移る。たっぷり三十分のマクラからようようお化け長屋が始まり、終演は九時半近かった。

一方千秋楽は、始まってすぐ多くの人が「ああ、青菜だ」とわかるマクラで、あっさり噺へと入っていった。もしかすると小三治は、六月の最後は青菜、と決めていたのかもしれない。いつもの青菜をやろう、と。

この噺をある感慨を持って聴くことが出来たのは、小三治の弟子、柳家三三のおかげである。この六月、私は三三の高座で、青菜を三度聴いていた。そして、同じシチュエーションが滑稽に反復されるいわゆるおうむ返しの構造をまるで鏡像のように語る三三の芸に、回を重ねるごとすっかり心奪われてしまっていたのだ。そう、それは取って置きの、特別な青菜。

三三は、その確かな演技力と講談よろしく流暢な語りによって、噺の持つ構造をまざまざと浮かび上がらせることのできる噺家だ。その美しさに、私は特別な青菜を見た。千秋楽で師匠である小三治が語り出したのも、やはり同じ特別な青菜だった。そこにははっきりと、青菜という噺の持つ構造の妙を見て取ることができた。しかし同時に、三三のようなテンポ良くキレのある語りではなく、含みを持ったチャーミングな表情と絶妙の間がつなぐ、それはとても親しみやすい、私たちの食卓に上がる、いつもの青菜でもあった。

この小三治の高座には、師匠から弟子へと受け継がれて行く落語という芸の面白さが詰まっている。五代目小さんの十三回忌の翌月、千秋楽で聴いた青菜は、特別な、そしていつもと同じ青菜であった。

(文/水田隆 2014/6/30「六月下席夜の部」@新宿末廣亭)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?