一、猫の災難 文左衛門

隣家より猫見舞いの鯛の残りが舞い込んだことから、熊のもとでひと騒動持ち上がる。落語らしい、いかにも他愛ない噺。休みの日に一緒に酒を呑もうとやってくる兄貴分と熊の気のおけない関係がなんとも可笑しい。

初天神や時そばなど、お馴染みの演目のなかには食の所作を観客が心待ちにしているものが多い。なかでも酒の噺は、そこにさらに酔っていく演技が加わり噺家としては腕の見せ所。猫の災難も、兄貴分が買ってきてくれた酒を味見のつもりでとうとう一升瓶まるまる空けてしまうことになる熊の呑みっぷりが、一つのクライマックスとなっている。

橘家文左衛門は食の所作が抜群に魅力的な噺家だ。たとえば転宅では、泥棒が忍び込んだ妾宅で旦那のために用意された料理を食べる、ただそれだけの場面になんとも言えない滋味を纏わせる。子供のように箸を握り里芋に突き立てる様子の面白さといったらない。

今回の高座でも、あれこれ言い訳を独りごち意地汚く酒を呑む過程で、盃を重ね酔いを深めていく様子が時に巧みに、時にチャーミングに、文字通りたっぷりと演じられ、最初のうちは気楽にお腹を抱えて笑っていた。しかし、やがて愛すべき酔っ払いが本当に高座に息づいているとしか思えない瞬間が訪れ、はっと息を飲むことになる。

実際の酔っ払いの動作を寸分違わず精密に再現したとして、上手さに感心することはあっても、高座に人物が息づきはしないだろう。おそらくそこに、落語の妙味がある。ないものをまるであるかのように見せる、観客の想像力を刺激する芸。食べる、呑むといった食の所作はその最たるもの。八代目桂文楽が明烏を高座にかけると売店の甘納豆が瞬く間に売り切れたという逸話は、単なる再現力とはまた別の、芸の奥深さを物語っている。

猫の災難に、猫は出てこない。大ネタとして知られるらくだでも、らくだは既に死んでいて、いないものの余波が噺を駆動する。そこでクライマックスとなっているのは、屑屋が酒に酔い豹変していく姿。ないものをめぐる噺がどちらもないものをあるかのように見せる食の所作を見所としているのは、果たして偶然だろうか。

(文/水田隆 2015/2/18「如月の三枚看板」@銀座ブロッサム)

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