一、死神 小三治

死神。柳家小三治の十八番の一つ。どうやらグリム童話『死神の名付け親』を三遊亭圓朝が輸入翻案したものらしい。圓朝といえば『牡丹灯籠』や『真景累ヶ淵』などの怪談が有名だが、この噺に登場する死神にじっとりとした日本的な怖さはない。しかし、怪談をベースにした滑稽噺とも違う。そもそも始まりからどうも妙なのだ。仕事もせずどうしようもない夫を妻が家から叩き出す、まるで芝浜のような語り出し。ところが、いわゆる人情噺のような展開にもならず、家を出た主人公はただふらふらと死に場所を探すばかり。木の下で首の吊り方を案じていると、「おせえてやろう。」甲高いしわがれ声と共に忽然と死神が現れる。ここで初めて地の語りが入り、その姿が細かに描写されるのだが、

「大きな木の陰から、現れるともなく現れて参りましたのが、年の頃はもうとうに七十は過ぎていよう、どうかすると八十も過ぎていようかという、痩せっこけた体でもって、禿げ上がった頭は前のところから白い毛がぽーっとかかり、胸をはだけ、鼠色の着物を着て、はだけたところから肋の骨が一本一本数えられようという、荒縄で腰を結わえて尻を端折って、もう枯木のように痩せた足の先二本、藁草履引っ掛けて、竹の杖ついて...」

怖い...わけではない。冒頭からの小さな違和感を具現したような姿。実際、死神の登場以降、物語はドイツロマン派よろしく一気に荒唐無稽な展開をたどる。観客をこの奇天烈な物語の世界にかろうじて繋ぎ止めるのは、小三治によって死神に与えられた不思議な説得力だ。「おせえてやろう」という声が発せられた瞬間、ナンセンスという他ない死神のキャラクターはもうそこに息づいている。事細かに描写された姿は、そのイメージを確認するためのものでしかない。落語には「フラがある」という言い方がある。噺家のもつ、曰く言い難い独特の雰囲気、おかしみのようなもののことだという。死神の底知れぬ、しかしどこかユーモラスな存在感。それは柳家小三治そのひとが纏っているものでもある。

とはいえ、小三治の天才によって死神の存在さえ受け容れてしまえばそれで腑に落ちる、というわけでもない。この噺で最も厄介なのは、実は主人公なのだ。からっぽで、果てしなく軽い。一見人間らしくはある。むしろ、人並み以上に強い欲望を持っている。だが、そこに感情を伴っている感じがしない。金策に失敗し家を追い出されると、なんとなく死のうとする。死神に病人を治す呪文を教わり、なんとなく医者を始める。金が入ればなんとなく妻子を捨て、なんとなく女を囲う。どうしてもと頼まれて、なんとなく禁を破る。螺子を回すと動き出す、機械仕掛けの人形のよう。落語の登場人物としては、世間の感覚から浮いた若旦那に似ていなくもないが、それにしても、かつて死神と因縁があったことが仄めかされる(グリム童話では名付け親ということになっている)この男は一体何なのか。

答えはない。それどころか、小三治は主人公の厄介さを死神という噺の核心としてそのまま提示しようとしているようだ。そうした姿勢は、サゲにも見てとることができる。死神の禁を破り、もう死ぬことが決まっていた病人を救ってしまう主人公。その報いに寿命が減り、余命を表す蠟燭が文字通り風前の灯となっているのを死神に見せられる。ただ、自分の手で新しい蠟燭に灯を継ぐことができれば、命は助かるという。しかし手が震えて失敗し、そのまま絶命、高座の上で噺家が倒れてサゲとなるのが元々のかたちだ。小三治はここにアレンジを加え、風邪をひくという伏線を張って、一度は灯を継ぐことに成功するもののクシャミをして消えてしまうという、独自のサゲで演じてきた。灯を継ぐというミッションに失敗して死ぬのであれば、まだ因果応報の物語としての体裁が保たれる。また、噺家によっては、死神が介入して灯が消えて死んでしまうもの、死を回避するもの、さらには主人公自身が死神となるものまであるが、これらも主人公がある役割を持って物語へと組み込まれることを促すサゲと言えよう。だがクシャミとなると、そこに意味を見出すのは難しい。ここでもやはりなんとなくクシャミをして、ハッと驚いたように顔を上げ、小三治は最後の最後にこの厄介な主人公と聴衆を対峙させるのだ。

終わってみれば、怪談よりよっぽど怖い。

(文/水田隆 2014/7/24「小三治一門会」@北とぴあさくらホール)

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