一、たらちね 小里ん

見るたび印象に残るのは、その端正な座り姿である。どこも力んだところがなく、ただすとんと座布団に乗っている。しかし、高座の下に根を張り巡らせてでもいるのか、些細なことでは毫も揺らぎそうにない。

柳家小里んの高座での姿勢は、師匠である五代目柳家小さんを彷彿させる。映像や写真のなかにかつての名人の姿を追えば、肩からの線がなだらかに床へと流れ落ち、まるで生まれた瞬間からずっと高座に住まっているかのよう。舞台に溶け込んで、いかにも自然体である。

とはいえ、滑稽噺を得意とする柳家の構えの屈託なさは、千変万化、様々な登場人物を瞬時に現出させてみせる鋭さを隠し持っている。大きな動きは必要ない。声音や仕草の小さな変化が、豊かに噺の世界を描き出す。

たらちねはいわゆる前座噺のひとつ。ざっくばらんで気のいい八五郎のもとに、大家から縁談が舞い込んでくる。あんまりうまい話なのでよくよく訊ねてみると、実は相手のお嬢さん、一つ疵があるという。なんでも漢学者の娘で、言葉遣いが丁寧過ぎるのだとか。自分は言葉がぞんざいだから丁度良いとトントン拍子でその日のうちに輿入れとなるが、実際会ってみるとなるほどちんぷんかんぷん、お清という名前さえ聴き取れない始末...

噛み合っているのかいないのか、それぞれにどこかずれたところのある登場人物たちのすれ違いが可笑しい。後に控える麟太郎改め柳家海舟の真打としての初高座、そしてネタ出しされていた三井の大黒に先立ち、おそらくは軽めの演目として披露された。しかし、いや、だからこそ、小里んのたらちねは今後も受け継がれていくであろう柳家の芸の地力をこの日最も強く感じさせてくれる高座であった。

録音でも聴くことのできる五代目小さんの型をほぼ忠実に踏襲している。安定した台詞まわしが滑らかに噺を進行させ、僅かな仕草の違いにそれぞれの人物が際立つ。ぴた、ぴた、と一つひとつの動作があるべき場所にあるべき大きさで収まり、高座に適度なアクセントを加えていく。なかでも目を惹くのは、音の効果への細やかな配慮である。

たとえばお清。彼女は一種の異形であり、噺を駆動するトリックスターとしての役割を担っている。客は大家や八五郎、葱売りに自分を重ね、彼女の滑稽さを笑う。一方、小里んのたらちねでは、迷いのない声音の向こうに彼女なりのやり方で八五郎を理解し愛そうとする真っ直ぐな思いが垣間見える。

さらに、八五郎が結婚生活をあれこれ妄想しながら待つ件。口が逆を向いていることに気づかずに七輪をあおぎ続けるパタパタという音が一定のリズムを保ち、単調になりがちな一人語りに劇中画のような夢幻的な効果を与える。

終ぞ声を張ることはなく、ともすれば単調に聴こえてしまう抑えた演出だが、ふとした語尾の揺れに人物の了見が滲む。コミュニケーションが成立しない可笑しさは、相手と良い関係性を築きたいという切実な期待と裏腹なのである。

古典、とりわけ前座噺とされるものの多くは、長きにわたり継承されてきた型を持つ。だからこそ、その同じ型にじっと目を凝らし、耳を澄ます必要がある。そうすれば、噺はどこまでも多層的な世界を見せてくれる。小里んの美しい姿勢を支えているのは、そんな落語の伝統への尽きせぬ信頼に違いない。

(文/水田隆 2015/3/21「小里んの会」@池袋演芸場)

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