一、庖丁 一朝

噺家を評するに「軽さ」ほど両義的な言葉はない。落語という芸が聴衆に与える印象の軽重は、芝居、とりわけ感情表現のレアリズムへの力点の置き方に拠っている。寄席の客はしばしば、泣き過ぎることを嫌う。一方で、人情を排した型の美しさへの拘泥は薄っぺらい芸術家気取りと揶揄される危険性を孕んでいる。了見をしっかりと感じさせながら、しかしそれぞれの人物に入れ込み過ぎて噺全体のバランスを崩すことのないように。適度な軽さを高座に纏わせることが出来るのは、的確に人物を演じ分け配置していくドライな編集感覚なのだ。

六代目三遊亭圓生の語りはからっと乾いて軽い。同じ時代に芸を競った古今亭志ん生や先代桂文楽を高座でシニカルにからかうのを聴いても(たとえば『大山詣り』のマクラでは二人の髪の薄さをネタにしてみせる)、あまりの意地悪さに思わずにやりとしてしまいこそすれ、悪意にあてられるようなことは終ぞない。噺に入れば、巧みな操り師による人形劇よろしく、多くの登場人物が複雑に行き来するストーリーをクリアに描き出す。そんな乾いた軽さを信条とする圓生が得意とし、立川談志をして他の追随を許さないと言わしめた演目が『庖丁』である。

このところどうにもうだつが上がらない寅んべえ、しばらく顔を見なかった久治と往来でばったり出会う。久治は妙に羽振りが良い様子で、鰻を奢るから一杯やりながら相談にのってほしいとのこと。久し振りに酒にありついた寅が上機嫌で話を聞くと、男振りの良い久治、延安喜という清元の師匠と夫婦となり一緒に暮らしているのだが、最近傍にまた別の女ができたため、女房が邪魔になってしまった。そこで、酒を手土産に宅を訪ね延安喜を誘惑して欲しい、手を握ったところに庖丁を持って殴り込み田舎の女郎屋にでも売ってしまえば幾ばくかになるからそれを山分けしよう、などという。金に目が眩み、一升瓶を手に寅は早速師匠宅へ。なんとか上がり込み酒の勢いを借りてきっかけを探すものの、延安喜はつれない。それどころか、しつこいと頭を打たれ風采の上がらなさを馬鹿にされる始末。これには寅も我慢できず、怒りにまかせて企みのすべてをぶち撒けるのだが、事態は思わぬ展開に...

三人の登場人物の相関図が刻一刻移り変わり、その都度それぞれの感情はジェットコースターのように激しい上昇と降下を繰り返す。同時に、張り巡らされた伏線を美しく回収していく構成の妙が魅力ともなっており、感情に振り切られ本筋を見失わぬよう高度に流れをコントロールする必要がある。圓生はそのメタ感溢れる語りで、持ち前の乾きを笑いへと昇華させて見せる。『庖丁』におけるめまぐるしい状況の変化を最も顕著に反映するのは、バリエーションに富んだ緩急自在の笑いの表現である。とりわけ、客の視点に近い位置で状況の意味をただひとり常に理解している寅は、喜怒哀楽、様々な感情に振り回されながら、結局のところ能天気な、一際軽い人物として描かれており、噺を通して実によく笑う。

春風亭一朝の『庖丁』は、寅の笑いを軸とした圓生の演出と台詞をほぼ忠実に踏襲している。しかし、私たちを魅了する当代随一の一朝の軽さは、圓生のそれとはかなり性質を異にしているようだ。圓生においては、軽さとは冷徹な演出家としての眼差しによってもたらされる、謂わば人情の湿度を欠いた乾きである。一方、一朝の高座にはすべてを客観視しドライに人物を造形しているような印象はない。「一朝だけに、いっちょう懸命がんばります!」というお馴染みのマクラは、もちろん形式的なものではあるがまったくの伊達というわけでもなく、所作や台詞まわしには、一朝その人の性質に由来するであろう一人ひとりの人物に寄り添った温かい人情味が確かに感じられる。ただし、それは一朝のなかに圓生的な冷徹な眼差しがまったく存在しないということではない。本来は圓生同様乾いた部分を抱えながら、そこに敢えて一滴の水を垂らすことで、より自由で軽やかな世界を描き出そうとしているのではないかと思われるのだ。

両者の持つ軽さの微妙な差異は、寅の怒りに任せた告白に対する延安喜の反応に端的に表れている。最愛の夫に売り飛ばされようとしていたことを知った延安喜は「チクショウ、チクショウ!」と悔し涙を流すが、その声音に含まれた怒気は、彼女がすぐさま次の展開に向けて思慮を巡らし事態のイニシアティブを握らんとする気高く強い女であることを示す。圓生の延安喜は、泣く仕草にさえどこか達観がある。それゆえ涙は何事もなかったかのようにあっさりと自然に乾き、客は寅を懐柔しての延安喜の痛快な復讐劇へと引き込まれていく。こうした女性像は、『転宅』に登場する義太夫節の元師匠など、芸事に関わる女の一つの定型ともなっている。

一朝はここで、同じ延安喜の台詞の端々に久治に裏切られた悔しさをはっきりと滲ませる。そして、延安喜の涙を圓生よりもほんの少しだけ長く引っ張って見せる。さらには、久治に啖呵を切り家から追い出す件で敢えてもう一度涙を流し、ついさっきまで夫であった男への未練を覗かせさえする。一見これは延安喜の強さの切先を鈍らせてしまう演出と映る。しかし次の瞬間、延安喜は私たちの目の前でこの未練を断ち切り、涙を拭う。延安喜はただ強いのではなく、強くあらんとし、強くなった女である。だから涙は自然に乾くのではなく、自らの意志で止めるのである。

圓生の『庖丁』に施されたこのマイナーチェンジは、ともすれば延安喜の生き様へと噺の重心を傾けてしまいかねない。しかし、圓生とはまた違った意味での軽さを信条とする一朝は、周到に逃げ道を用意している。『庖丁』の見所の一つに、肴の在り処を巡る寅と延安喜の攻防がある。一朝はこのくすぐりに、ついさっきまでなにもないと言っていた延安喜が、寅から夫婦約束を取りつけた途端に奥から刺身を取り出す、というオチを加えている。恐らく、刺身は久治のために用意されていたものだろう。延安喜の情の深さを感じさせる演出である。しかし、寅との丁々発止のやり取りの一部とすることで、私たちは延安喜の思いを笑いながら受け止めることが出来る。

一人の噺家の個性によってある完成を見ていた演目が、違った個性を持つ噺家によってまた別の可能性へと開かれていく過程に立ち会えるのは、落語の大きな醍醐味である。一朝の『庖丁』は、圓生の巧みなデッサンに敢えて色をつけることで、噺の輪郭をぼやけさせてしまうどころかさらにはっきりとしたものへと変え、世界に生き生きとした奥行きを与えるのに成功している。かつての名演に取り込まれるのではなく、むしろ自分の芸へとその長所を取り込みながら、自由に、軽やかに。一朝の次の一筆は、噺の世界にどのような彩りを加え、私たちを笑わせてくれるだろうか。

(文/水田隆 2015/4/2「人形町らくだ亭」@日本橋劇場)

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