一、船越くん 百栄

油断してはいけない。銃弾は常に視界の外から飛んでくる。高座は戦場だ。いま客席右手後方を引き裂いた女のヒステリックな叫びは、笑い声ではなく断末魔なのだ。

春風亭百栄の噺の多くはメタフィクションとして構成されている。とはいえ、新作落語において外からの視点が介入するのはさして珍しいことではない。当たり前のものとして受け入れられてきた枠組みを次々と逸脱していくなかで語りを駆動するのは、新作落語の主要な特徴の一つでさえある。

一般的なイメージが強く固まっている対象ほど、逸脱のインパクトは増す。そのためか、新作落語では身近な日常の風景、あるいは著名な人物や観光名所などの具体的な固有名がしばしば題材となる。たとえば愛子さまが皇居を抜け出し浅草を彷徨う三遊亭白鳥の『隅田川母娘』は、最もあからさまに逸脱していく語りへの欲望を曝け出した作品と言えるだろう。

タイトルからもわかるとおり、『船越くん』はサスペンスドラマのパロディである。かつて恋人同士だった二人を断崖に呼び出し刑事よろしく颯爽と現れる、その名も船越くん。円満に別れたはずの二人は、彼によって次々と身に覚えのないサスペンスドラマ的な設定を押し付けられることになる。

しかし、そもそも実際のサスペンスドラマのなかで船越英一郎が自ら船越くんを名乗ったりはしない。彼の名が呼ばれる度、設定の虚構性が露出する。白鳥の高座のように固定されたイメージからの逸脱によって物語がドライブする快楽はそこにはない。観客に突き付けられているのは、そうとわかっているからこそなお深く虚構に囚われてしまう人間の因業である。

船越くんの語りは断崖という場の力を借りて現実を虚構の世界へと書き換え、二人を幻惑する。これは一種の見立て、古典落語では「ご趣向」、「遊び」と呼ばれるような振る舞いである。『花見の仇討ち』や『二階ぞめき』は言うに及ばず、『時そば』で最初の客が働く詐術に到るまで、個人的な楽しみのため現実のなかにほんの少しの嘘を紛れ込ませる行為は粋なものと受けとめられてきた。

一方船越くんの見立ては、全くもってハタ迷惑、しかもどこまでもしつこい。そして、何度も翻弄されながら二人がなんとかサスペンスドラマの呪縛を振り解こうとしたそのとき、次なるキャラクター、片平さんが登場する。とはいえ、彼女にも話の進展を期待することはできない。新たな視点の介入はステージを引き上げるどころか、船越くんのそれと同じ不毛な見立てを上塗りする。片平さんは第二の船越くんであり、事態は振り出しに戻るのだ。この徹底した「話のふくらまなさ」にこそ、百栄落語の真髄がある。

高座はいつも、力の抜けた挨拶でゆるりと始まる。ああ、いつもの春風亭百栄だ、と笑いが起こる。しかし、まさにその瞬間、気のない声と裏腹に、ぼさぼさの髪の下からは鋭い視線が舐めるように客席を見渡している。演目のタイトルをまわりよりも早くプログラムに書き込もうとする客を揶揄したマクラがあるが、百栄の高座を聴いていると常にどこか見透かされているようなそわそわした気分に捉えられてしまう。

本題に入っても脱力した姿は変わらない。淡々と舞台が設定され、そこに日常的感覚を生きる人物がぼんやりと迷い込む。『船越くん』の断崖に限らず、学校、近所の通り、上野公園、高座と、舞台となる場を軸とした構成は百栄の多くの噺に共通している。彼らがそこで地獄篇よろしく遭遇することになるのは、場をめぐる虚構を語り出す誘惑者だ。

場をめぐる物語の虚構性とその魅惑が主題であれば、話が進展する必要はない。むしろ進展しないこと、「話のふくらまなさ」によって、話は噺へと変わる。なぜなら、半永久的に続けることさえ可能な物語を一旦止めることができるのは、仮初めの軽やかなサゲだからである。

外への逸脱ではなく内への誘導を目的とする百栄のメタフィクションは、観客に傍観者であることを許さない。誘惑者の持つ外からの視点が内なる世界の滑稽さを生み出している当のものである以上、笑いはその都度、共犯関係の表明にほかならない。そこで照準を定められているのは、自分だけ無傷でいられると信じて止まない常識の方だ。

(文/水田隆 2015/2/22 「日本橋アルデンテ夜の部」@日本橋三井ホール)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?