とある落語愛好家の一日

瞳は目を覚ました。これは永遠の休暇の始まりだろうか。枕もとの赤い目覚まし時計に視線を向ける。その刹那、短針がローマ数字Ⅶを指す。けたたましいベルの音が家中に鳴り響く...と思われたが、瞳の腕は自由形の水泳選手がプールの壁面にタッチするようななめらかな動きで上部中央のボタンを押し込み、両脇に鎮座する猫の耳に似た銀鐘の振動をたった1度しか許さない。

「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ...」

落語『寿限無』に登場する名を続けざま5度唱えるのが瞳の朝の日課である。いつも3度目で詰まる。つい遠き唐土パイポ王国の在りし日の隆盛に想いを馳せてしまうからである。もしパイポ王国に生まれていたら、わたしはパイポやシューリンガンの寵愛を受けたに違いない。そしてグーリンダイとなり、ポンポコピーやポンポコナーのような元気で健康な御子を設けただろう...

しかしいまは瞳の妄想に付き合い続けるべきときではない。我々には瞳の落語愛好家としての姿を客観的に記述し、依頼者である貴女へと速やかに報告するという任務がある。内面への介入は最低限に止めおかねばならない。2015年4月26日、日曜日。無事寿限無を5度唱え終えた瞳は、果たして落語愛好家の名に恥じぬ立派な一日を送ることが出来るだろうか?

今日の予定を整理しておこう。

10:30-11:30 出発、移動(バス→電車)
11:30-14:00 黒門亭第一部
14:00-14:30 移動(徒歩)
14:30-15:30 昼食(上野藪蕎麦)
15:30-15:45 移動(徒歩)
15:45-16:45 松坂屋上野店6階催事場『寄席紙切り百年 正楽三代展』
16:45-17:00 移動(徒歩)
17:00-20:40 上野鈴本演芸場夜の部
20:40-21:40 移動(電車→バス)、帰宅

瞳が自宅を出たのは11時過ぎ。準備にたっぷり4時間を費やした計算になる。内訳は、妄想に1時間、服選びに1時間、服が決まったことに満足し、おもむろに紅茶を淹れ、それを飲み終えるまでに1時間、そして妄想の続きに1時間。もう出発しなければ最初の予定に間に合わないことに気づき朝7時に起きたのに何故化粧どころか着替えの一つさえ進んでいないのか解らずこんなことではポンポコピーとポンポコナーはままならぬと混乱しながら30秒で何とか身支度を整え、ようやく玄関から飛び出したところである。

快晴。まるで初夏のような陽気で、太陽の光が眩しい。瞳は思わず瞳を閉じる。ハートを型どった赤いサングラスを所有しているが、ちびっこギャングにしか見えないのを気にして実際に着用することはほとんどない。幸いバスはすぐにやって来る。電車との接続も奇跡的にスムーズに運び、11時40分には御徒町の駅へと降り立つことが出来た。途中のコンビニでペットボトルのお茶と糖分補給のためのチョコレートを購入、落語協会2階黒門亭へと向かう。

開演は12時。1000円を支払って狭い階段を上がり余裕を持ってブーツを脱ぐと中央2列目の座布団に腰を下ろす。2列目といっても、黒門亭は土日各2部、それぞれ40名が定員の小さな落語会である。入りは半分といったところか。お茶で喉を潤わせてから、瞳はチッと舌打ちをする。モグリめっ!念のために断っておくが、瞳の罵倒はこの日黒門亭を訪れた善良な市民へと向けられたものではない。Twitterのプロフィール欄に趣味→落語などと恥ずかしげもなく記載し、その実、人気の若手や贔屓の噺家にしか興味を持たず、柳家小里んの『付き馬』がネタ出しされているにも関わらず黒門亭を訪れようとは露も思わない凡百の落語ファンへの苛立ちが、些か品を欠いた振る舞いと言葉(あくまで心の中での)へと結実したまでのことである。チョコレートを口に放り込む。

黒門亭第1部演目
あんこ 狸札
小んぶ そば清
扇里 鼓ヶ滝
(仲入り)
木久蔵 愛宕山
小里ん 付き馬

各高座へのコメントは控えよう。瞳は小里んの素晴らしさにあらためて胸打ち振るわせながら腹を鳴らす。小んぶが『そば清』を高座にかけたのは、瞳が昨晩から上野藪蕎麦で昼食をとると決めていたからであり、その逆ではない。つまり、「羽織が蕎麦を着て...」という最後の大ポカは、噺家にとってのオチの大切さをマクラで振りながら大蛇をまえにした狩人のごとく瞳の食への執念に飲み込まれ『そば清』を選択してしまった時点で、もう決まっていたのである。小んぶの心の傷、浅からんことを。

14時半。日曜のこの時間、上野藪蕎麦は思いの外混雑している。上野の蕎麦屋は日曜休みが多い。しかも通し営業となると、藪一択となる。それゆえ並ぶ時間も含め余裕を見てたっぷり1時間を昼食に見ていたのである。しかし今日はさほど待つことなく店内へと案内される。瞳はせいろを50枚啜ると江戸前に現金でさっと勘定を済ませ、すぐさま上野松坂屋へと向かう。

15時15分。上野松坂屋のエレベーターは古い。扉が閉まり切らずに開いてしまう誤作動を繰り返す。しかし瞳は苛立たない。程良い満腹感ですこぶる上機嫌である。黒く印字された「上り」「下り」という文字が昇降を告げる、そっぽを向いて並んだ擦りの電球の明滅。乗ると正面に扇を広げ、回転する矢印が現在階を指し示す、精密な製図器具のような金属盤。やはり金属製の縁取りが白いエレベーター内の上部を彩り、その縁取りと同じ装飾があしらわれた円型の照明の光を頭頂部に受けながら振り返れば、分厚い扉がようやく完全に閉まったところである。愛おしい。すべてが愛おしい。これまでの長い歳月を凝縮した燻し銀のレトロ感。黒門町に居を構えた先代桂文楽もやはりこのエレベーターに乗っただろうか。

上野松坂屋6階催事場では先日から『日本の職人展』が開催されている。その一環として催事場奥に『寄席紙切り百年 正楽三代展』のブースが設けられ、当代林家正楽まで3代にわたる歩みを振り返ることが出来る。初代、二代、三代の順で珠玉の作品群が並ぶが、瞳の瞳を強く捉えて離さないのは当代である。何れ劣らぬ名人に優劣をつけようというわけではない。しかし当代が切り抜く女性の身体や衣服の滑らかなラインにはどうしても心奪われてしまうのである。やっぱり、リクエストしよう。瞳は心に誓う。正楽さんにあのひとを切ってもらうんだ。

催事場に置かれていた寄席割引のチラシを手に、瞳はついに最終目的地、上野鈴本演芸場に到着する。開場30分まえだがすでに20人ほどの先客が列を作っている。入り口脇には三代目林家正楽と黒い寄席文字で染め抜かれた2本の幟がたなびく。一方の地は横に萌黄色と柿色を、他方は縦に水色と黄色を配する。記念に写真におさめようと正面を向くのを待つが、風に煽られたままシャッターチャンスは訪れない。

結局1枚も撮れぬまま割引料金2500円でチケットを買い、プログラムを受け取ってエスカレーターで2階へと上がる。中央2列目。1列目を避けたのは、トランプを引かされたり、紐の結び目を投げつけられたり、腕時計をDONQの食パンに埋め込まれ粉だらけにされたりするのを避けるためだが、しかし今日のメインディッシュは紙切りである。やはり最前列にするべきだったろうかと逡巡するうち桃月庵白酒の弟子はまぐりが高座に上がり、前座らしからぬ端正な『子ほめ』を披露し始める。『寄席紙切り百年 正楽三代展』記念公演の開幕である。

鈴本演芸場夜の部演目
はまぐり 子ほめ
市弥 元犬
アサダ二世
小ゑん 鉄の男
翁家社中
藤兵衛 黄金の大黒
百栄 寿司屋水滸伝
小菊
さん喬 天狗裁き
(仲入り)
正楽 紙切り/美空ひばりメドレー
三三 粗忽の釘

瞳は正楽にリクエストを告げることが出来たのか?それこそがこの報告書のクライマックスとなるべき問いだが、残念ながら答えは否である。周囲の迫力に気圧され、瞳には声を出すことすら叶わなかった。では瞳が切ってもらいたいと願ったあのひととは一体誰だったのか?阿鼻叫喚のなか誰にも届くことのなかった瞳の心の声に耳を傾けよう。

「みね...ふじこ...みね...ふじこ...ルパン三世の...峰不二子!」

峰不二子。ルパン三世の峰不二子。瞳はファーストシリーズのルパン、そしてシリーズを通して画面のなかに確かに息衝いていた峰不二子というキャラクターを偏愛してきた。今宵瞳が正楽のハサミによってこの世に生を受けなんと切望したのは、「峰不二子という女」などというまどろっこしい偶像ではなく、峰不二子そのひと、貴女なのである。

依頼者よ、あなたは瞳が落語愛好家であるかを問うはずのこの報告書から読み解こうとしていた真の問いに対する答えに既に達したつもりになっているはずである。それでも我々は敢えて報告を続行する。瞳にはリクエストを告げることが出来なかった。しかしその後に正楽が高座で展開して見せた世界は瞳の頬を涙で濡らした。美空ひばりメドレー。それは虚構と現実、此の世と彼の世を織り交ぜて繋ぎ、あらゆる人々が船に乗って一本松の下に集う、正楽らしい博愛の歌である。トリの柳家三三は目を潤ませながら高座へと上がり、先代、当代正楽の思い出を語った後、十八番の『粗忽の釘』で客席の爆笑をさらった。

瞳は上野から電車、バスを乗り継いで22時に帰宅する。心は今朝の空のように晴れ渡り、快活に夕食を支度する。すっかり空腹である。とある落語愛好家の一日がこうして終わる。替わって夢の時間が始まる。瞳は枕もとの赤い目覚まし時計を7時にセットするだろう。

報告以上

(モデル/佐藤瞳 文・写真/水田隆)

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