一、甲府ぃ 扇辰

7月12日土曜日、鈴本演芸場夜の部、入船亭扇辰主任。
TBS『落語研究会』( http://www.tbs.co.jp/rakuken/ )で扇辰師の「甲府ぃ」に心をうばわれて以来、一度は生で聴きたいと思いつづけてきたその願いが、夏の盛りを迎えようとしている上野・鈴本演芸場で叶うこととなった。
「甲府ぃ」は立身出世をめざして江戸へ出てきた青年・善吉と、縁あって彼を雇い入れることになった豆腐屋一家とのかかわりを描いた人情噺だ。端麗なる芸を身上とする扇辰師がひとたびこの噺を高座にかければ、そこでは登場人物たちの情緒ゆたかなやりとりや関係性の変化などの丹念な描写をとおして、ひとの生活というものがそれ自体でひとつの歴史であり物語であることが力づよく語られるのである。

甲府に生まれた善吉は幼少時に「二親に死に別れ」、叔父叔母のところへ厄介になっていたが、いつまでも迷惑をかけるわけにもいかぬと決心して家を飛び出し、立身出世を夢みて江戸へ出てきた。しかしその日に浅草で巾着切り(スリ)に遭い、全財産を失ってしまう。なすすべもなく彷徨っていた善吉は、空腹のあまり豆腐屋の軒先でつい卯の花を盗み食いし、それを奉公人が咎めて騒ぎになってしまった。
事情を聞いた豆腐屋の主人は、災難に遭ってもめげずに江戸での出世を望む善吉の固い決意に心を打たれる。さらには江戸への道中、身延山(日蓮宗総本山)へ出世の願掛けをしてきたという善吉に対する同宗の親近感が決め手となって、主人は善吉を奉公人として雇うことに決めた。
善吉に与えられた仕事は外回りの売り子であった。主人は伸びやかな通りのいい声をあげて、善吉に自店独自の売り声を教える。

「豆腐――、
    胡麻――入り――、
       がんも――ど――き――。」

善吉は慣れぬ仕事に「と、豆腐ウゥ……ゲホゴホォ……ゼェゼェ……胡麻入りィ……がんもォどォきイィ……」と裏返った情けない声を上げながらも懸命につとめだす。働き者でなおかつ愛嬌のあるその人柄は次第に町の女性や子供たちの評判となり、豆腐屋はますます繁盛していった。
そうして三年の月日が経ったある日、主人は奥方と、一人娘のお花に婿をとらせてはどうかと話し合う。よそ者を家に入れるよりも、根が正直で働き者、健気なまでに奉公に精を出してくれている善吉が婿になってくれたらこんなにうれしいことはないと、ふたりの意見は一致していた。お花自身もまんざらでもない様子であるという。奥方がおそるおそる打診すると善吉は驚き、涙ながらに感謝を述べて頭を下げる。
めでたく夫婦となった善吉とお花は、それまで以上に精を出し、休みもとらずによく働いた。その様子を心配した主人は善吉に、たまには休んだらどうだ、と勧める。それを受けて善吉は、一度故郷へ帰って墓参りをし、願掛けしたままの身延山へ願ほどきに行きたいと申し出る。夫についていきたいというお花も同行することになり、若いふたりが旅に出かけてゆくのを、主人は感慨深く見送った。
町の奥さん連中は「縁日にだって出たことない」ほど働き通しだった豆腐屋の若夫婦が珍しく揃って出てゆく姿に驚いた。「ちょいと善吉っつぁん、こんにちお揃いで。どちらへ?」。

「甲――府――、
    お参――り――、
       願ほ――ど――き――。」

サゲで善吉が披露する売り声(の変形)は、三年前に主人が教えてくれた流麗な売り声とそっくりで、かすれた声をはりあげていた頃の面影はもうどこにも残っていない。本編では省略される三年という歳月が、善吉と豆腐屋一家がさまざまな苦難や歓喜を共にしたり、晴天のすがすがしさも嵐の日の心細さも分かち合ったりしながら積み重ねてきたのであろう歳月が、伸びやかな売り声の余韻のうちに確かな重みを感じさせる。

扇辰師は「甲府――、お参――り――、」で手を合わせてお参りの仕草を見せ、ひと呼吸おいてすっと正面を向く。「願ほ――ど――き――」。
落語では「首ふり」と言われるように、人物同士の会話における話者の切り替えを噺家が顔と目線の向きで表現する。一般的には、話者Aの発話は右斜め前を向き、応答する話者Bの発話は左斜め前を向いて演じるといった手法がとられるのだが、これに対して、噺家が真正面を向くということは客席への語りかけに他ならない。つまり、奥さん連中に対する善吉の目線から、観客に対する噺家の目線へ、「願ほどき」の瞬間にふっと戻るのである。
観客に対する噺家の目線は、噺家に対する観客の目線をはっきりと映し出す。じつは、願ほどきをしたいと望んでいるのはわれわれ観客なのであった。決して恵まれた身の上とはいえなかった善吉が、自身の努力と才覚と、何よりこの上ない良縁によって、涙ぐまずにはいられぬほどの幸福を手にするさまを目の当たりにしてきたわたしたちは、思わず感謝し、願ほどき=お礼参りをしたい気持ちになっていることに気がつくのだ。
感謝。お礼。――いったい誰に? こう自問したとき、この噺の通奏低音をなしている仏教信仰というものの断片にわれわれは触れているのである。
扇辰師の高座はいつも、なにか背筋の伸びるような澄明な空気に満ち、そのことによって「落語を聴いているわたし」に対して、しずかに語りかけてくるのだ。

(文/佐藤瞳“扇辰担” 2014/7/12「七月中席夜の部」@上野鈴本演芸場)

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