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想像力を酵素と知る音楽的感動

最近読んだ2つの全く別の本から、タイトルのような言い方ができるのではないかと思うようになりました。

まず、これまで全く知らなかったクリーブランド管弦楽団のジョージ・セルが言った言葉。

「本物の指揮者は心で考え、頭で感じなければならない。」

普通の解釈の逆のように見えますが、指揮者にとって大切なことは、「感情を冷静にコントロールしながら、感動を頭脳的に作り出す。」ことだそうです。
そう言えば、何か不条理なことがあり、それに対して感情が高ぶっている時は、いわゆる「心臓がパクパクしている」状態ですね。頭に血が昇って「感動」も何もない状態。指揮者がこのような心持ちで楽団員を指揮しても、冷静な楽団員との心的なズレが生じるだけですね。

従って、心で考えるとは、つまり一切の感情を冷静にコントロールすることな訳ですが、これは音楽以外についても同じことが言えそうです。
例えば、何かの論点に関して誰かと議論している時、まずは感情を冷静に保ち、相手の頭の中に入り込み、どうすれば、相手の論拠となっている考え方についての矛盾点なり、非論理性なりを冷静に説きながら、無理やり説き伏せるのではなく、当の相手自らが気づいてくれるか? この点が重要になってきます。

端的にいうと、相手が頭の中で「ハッ」と感じる瞬間を作り出すことが出来れば、そこから先は相手の頭の中に新しい「常識」のようなものが新しく生成され、話がうまく通じることになります。

音楽についても同じことが言えます。長年バッハの音楽を聴いてきて、ようやく最近になって分かってきたことは、バッハの音楽に感動するとは、心で感じるものではなく、どうやら、計算された和音の組み合わせや音楽のテンポ、あるいはクライマックスを作り出す音の仕掛けのような、いわばバッハならではの「多彩なノウハウ」によって引き起こされるようです。

しかし、そのバッハの企みは、聴く人が脳内に持っている「酵素」によっては、全く音楽的な感動に作用しないこともあるのではないか。

それは、「人間は外面的幸福それ自体は吸収することができず、人間の心の中で「想像力」という酵素が作用することではじめて吸収できる状態になる。」と述べている、もう一つの本(長沼紳一郎「現代経済学の直感的方法」)から示唆を受けました。

例えば、野に咲く名もない一輪の花を見た時や、生まれたばかりの1ミリほどの蜘蛛の子が必死に蜘蛛の糸を垂らしている様を見た時、ある種の「想像力」があれば、得も言われぬ程に感動する人もいれば、「想像力」がなくて全く感じない人もいます。

これは、その人の脳内の酵素の多寡や、種類、また組み合わせ、あるいは可塑性などにより、目の前の同じ情景に対しても、人によっては全く違った感動を引きおこす(あるいは全く引き起こさない)ことが、この歳になって何となく分かってきました。

同じ人生を過ごすのなら、やはり日々新たな感動が脳内で作られるようになりたいものですね。

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