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子どもを怒りすぎて後悔してしまうママたちと考えたいこと 。| 聖書で学ぶ子どもの「しつけ」

児童虐待のニュースが後を絶たない。
虐待による子どもの死、親の逮捕。

注目したいのは、逮捕された親のほとんどが、『「しつけ」のつもりが、まさか死ぬとは思っていなかった』と供述していること。

私も第一子がとてもとても手のかかる子で、産後うつ、育児ノイローゼ、それが原因の産後クライシスを経験した。

今でも時折子どもに対して「行き過ぎたしつけ」をしてしまったのではないかと後悔することも多い。

虐待のニュースを見る度に、「明日は我が身かも」と、子どもへの苛々をリセットせねばと思わされる。


でも、長男を育ててみて、「まさか死ぬとは思っていないかった」と話す親の気持ちが、少し理解できてしまう。

だけどその度に思う。
「この母親の心の限界に、誰も気付いてあげられなかったのだろうか」
「この母親を、助けてあげられる人はいなかったのだろうか」


「虐待」の根底にある、母親にのしかかる不安と重荷を、少しでも軽くすることができたなら、最悪のケースは避けられたのかもしれない。


だから、子どもに害を与えてしまう前に、親として行うべき「しつけ」について、学びたいと思う。

しつけと虐待の違いを認識する

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子どもが言うことをきかず、わがままを続けると、親の苛立ちは募り、声を荒げたり、それでも聞かなければ手をだしてしまったり。

"叩かなければ分からない"と、ひと昔前までは手をあげることが肯定的に捉えられていたが、昨今子どもが死亡する事件が頻発するようになり、
今では必要な「鞭」さえも、すべてが「虐待」と見られるようになってしまった。


子ども虐待防止 オレンジリボン運動」では、しつけと虐待の違いについてこう述べている。

子どもが耐え難い苦痛を感じることであれば、それは虐待であると考えるべきだと思います。
保護者が子どものためだと考えていても、過剰な教育や厳しいしつけによって子どもの心や体の発達が阻害されるほどであれば、...虐待と捉えるべきでしょう。

子どもが言うことをきかなくて、苛立ちが募っても、初めから致命傷に至るほど叩く親はきっといないと思う。

まだ自分を制御できるうちに、「しつけ」や「教育」と思っているその行為やことばが、子どもの「心」と「体」の発達につながるかどうか、まずは自問自答してみること。

自分の心の状態を客観的に見ることで、子どものためにとるべき対応が見えてくる。
それでもわがままし続ける子どもに苛々してしまうときには、続く「子どもの心理」に着目してみよう。


子どものわがままを見極める

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それでも子どもがわがままをし続けて、苛々してしまう場合、どう対応すればいいのだろう。

結論から言うと、しかることは必要だ。

子育ての悩みを聞いていると、
『「虐待」していると言われるのが怖くて、「しつけ」をすることさえ怖くなり、子どもを甘やかしてしまう... 』
と、話してもらうことがある。

聖書は、子どもを甘やかすことについてはどう言っているのだろう。

自分のしもべを幼い時から甘やかすと、
ついには彼は手におえない者になる。 ( 箴言29:21 )

自分の子に限らず、子どもをしつけず、わがままな行動を許し続ける (=甘やかし続ける)と、その子は最終的に手がつけられない人間になってしまう。
これが聖書の出す結論だ。

そもそも、クライアントと話していると見えてくるのが、
「甘やかす」「甘えさせる」の違い。

子どものわがままに対して、「甘えさせている」つもりが「甘やかしている」ことに気づいていない親も、実は多い。

子どものわがままには2種類あって、単に自己中心的なわがままと、「甘え」からくるわがままである。

甘えからくわがままには、「可愛がってもらいたい」「受け入れてもらいたい」「親の愛を確かめたい」という心理がある。

その心理を受け入れてあげるのが、「甘えさせる」ことであり、それで子どもの心が「発達」するのであれば、大いに甘えさせるべき


一方で「甘やかす」というのは、子どもの "自己中心的なわがまま" を、とがめず、許し、そのままにさせておくことを指す。

もしそのままにしておくことで、子どもの心の発達が阻害されるならば、「甘やかし」はやめなければならないし、
「しつけ」なければならない。

子どもがわがままをし続けるときには、そのわがままを見極め、
「甘えさせ」と「甘やかし」を間違えずに判断し、わがままの種類に沿った対応をすることが、親には求められる。

愛するあまり、悪いことをしても何も注意しないより、
しかるときははっきりしかるほうがよいのです。( 箴言27:5|JCB )


「懲らしめの本質」でしつける

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自己中心的なわがままを続ける子どもに対して、聖書は子どもを厳しくしつけること、懲らしめを与えることを否定していない。( いや、むしろ肯定的だ。)

あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、
あなたの心に喜びを与える。( 箴言29:17 )

むちと叱責は知恵を与える。( 箴言29:15 )

子どもは、しかられ懲らしめられることで、
何が悪いことなのかを知ります。
わがままいっぱいに育てると、
あとで母親が恥をかきます。( 箴言29:15|JCB )

右から左に聞き流す者は、しかるだけでなく、
懲らしめなければ言うことを聞きません。( 箴言29:19 )

しかしここで間違えてはいけないのは、
「だから散々懲らしめていい。罰を与えていい。叩いていい。罵声を浴びせていい。」
ということではない。

ここで言う「懲らしめる」とは、
「むちと叱責」を与えることである。


叱責とは、悪いことや望ましくないことを、注意したり非難することであり、
これは多くの親がすでに行っている「しつけ」だ。


一方むち(鞭)とは、その昔、野獣を追い払って羊を守るために、羊飼いが装備していた武器のことで、
それは詩篇23篇の中にも描かれている。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。( 詩篇23:1-4 )


神様のむちは、羊(私たち)を危険から守るだけではなく、慰めになる。

落ち込んだ心、波立った心、頑張った心を覆ってくれて、
あるいは危険な道から守ってくれる。


この神様のむちを、子どものしつけにも応用するなら、
叱責も、慰めのむちも、両方が必要になる。

叱責だけでは子どもの心と体の発達にならないし、
むちだけでは子どもがやがて手におえなくなる。

むちと叱責の両方を与えることで、子どもは、知恵を得て、
物事を適切に判断し、処置することができるようになる


これが懲らしめの本来のあり方。


子どもの将来を守るために、しっかりと叱責し、
同時に慰めのむちを与え
、子どもの成長へとつながるしつけを心がけたい。

まとめ | 子どものわがままに苛々して手をあげてしまう前に考えたいこと

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1.まだ冷静さがあるうちに、これから放とうとしている「ことば」や「手」が、子どもの心と体の発達を阻害しないかを考えよう。

2.子どものわがままが、「甘え」からくるものなのか、「自己中心的」なものなのか、わがままの種類を見極めよう

3.自己中心的なわがままに対しては、叱責と慰めのむちの両方を与えよう。


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