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スピ業界かじった私がたどり着いた、ひとつの答え


心理学はスピか?


「スピ業界」と言っても定義は曖昧ですが、仮に「目に見えないモノを扱う」と広めに定義するのなら、心理を学んだ大学時代から数えて、業界歴は20年以上になります。
当時心理学は(日本国内では)まだまだ新興の学問で、心理テストブームに乗って若者にやや浸透し始めた程度の頃でした。とは言え、いざ入ってみると実はその領域は多岐にわたっていて、霊長類研究所と共同でサルの行動実験を行うような自然科学に近い領域もあれば、潜在意識と神話や占星術の関連を探るかなりオカルティックな分野まで様々な顔がありました。
わたしが専攻していたのは臨床心理学で、主に精神病理や神経症といった、いわゆる「メンタルヘルス」が専門分野。表層的にはそこまでスピスピしたムードはありませんでした。(実はこの分野も深めていくと、人間の深い精神性から量子力学、宇宙との関連などスピリチュアルな領域に繋がるのですが、それについては今回はまた別の機会にでも)

心屋カウンセリングに出会う

大学卒業後、人材派遣会社で勤務したのち、親の介護のため退職したわたしは、そこで本格的に自分の生育歴やトラウマ、生きづらさの根幹と向き合わねばならなくなり、より実践的な心理学を学び直すことにしたのですが、そこでわたしが選んだのが「心屋式カウンセリング」という当時テレビなどでもちょっともてはやされた新興のカウンセリング流派でした。
心屋では、それまでの人生で(主に親との関係や学校などで)身につけてしまった、自分を苦しめる「べき・ねば思考」を手放していくということがカウンセリングの核となっていて、そのために思い込みを解除するような「魔法の言葉」を呟いたり(「〇〇してもいい」「〇〇しなくてもいい」など)、自分の枠をぶち壊すような思い切った行動をとってみる(俗に「バンジーを飛ぶ」と呼ばれていました)ということが主なメソッドとなっていました。要は自分を縛っていた価値観とかルールから自由になることを目指すのですね。

はじめに言っておきたいのですが、心屋自体はとてもよい流派だとわたしは思います。もちろん何においても完璧はありませんので、教義に穴はあるだろうし偏りもないとは言えないでしょう。それでも客観的に見て、かなり禅的というかフラットで自由な切り口の効果的なカウンセリング手法だったと思います。心屋に人生救われた人はほんとにめちゃくちゃ多いと思う。

わずかな違和感

でもどんな素晴らしい教義でも、受け手によって解釈は様々。思いもよらぬ受け止め方だったり、想像の斜め上を行く拡大解釈みたいなものも見受けられました。
私が特に違和感を感じたのは「〇〇してもいい」を全てに適用して、「無邪気なら何してもいい」みたいな極端な行動に走るタイプの人が一定数いたこと。SNSで無差別に「お金ちょうだい」投稿とかね笑。いや、別にいいとは思うんですよ、その人の人生だし、社会実験としても面白い。でもそれ、本当にやりたいの?やりたいことと他者承認がぐちゃぐちゃにもつれてない?みたいな気持ちになることがたまにあった。

そう、ポイントはおそらく「承認」なのだと思います。わたし自身、承認欲求に振り回されてきたからこそ、他人のそれにも敏感というか、つい意地悪な目で見ちゃう笑
でもおそらく、わたしが違和感を感じていた「わたしは自由!好きなことする!ほらこんなに破天荒!」って人の多くは、心の底に寂しさと、パンパンに膨らんだ承認欲求をもてあましていたと今でも思う。(承認欲求自体が悪いわけではないですよ。あっていい。求めてもいい。ただ無自覚に振り回されていては、せっかく心理学を学んでも本末転倒だなぁと思うのです)

もちろんこの世は鏡の法則なので、つまりはわたし自身が自分の中の承認欲求と対峙すべく、もっと深いスピ領域へと足を踏み入れることになりました。


いよいよスピ沼へ

カウンセリングを学び、かなりラクに生きられるようにはなったものの、「何かがまだ足りない」と焦りのような不安感を拭えなかったわたしは、少しずつ本格的なスピリチュアル沼へとハマっていきます。現実的な手法だけでは満足のいく結果が得られないなら、あとはもう見えない世界に活路を見出すしかない。
「自分を肯定したい。受け入れたい。でも劣等感が邪魔して受け入れられない。自分はなぜこんなにダメなんだろう?他の人みたいにできないんだろう?」そう悩んでいる時、「あなたはダメなんかじゃない。他の人より劣っているわけでもない。むしろ逆!特別な存在(宇宙人・HSP・妖精など)だからこそ社会に馴染めないんだよ」と言われたら、自己肯定感底辺の承認乞食がイチコロになるのは目に見えてますよね?
劣等感と特別感が表裏一体なことを、スピ業界の方々はよーくご存じです。
そんな経緯でスピ沼にハマったワタクシ。具体的な団体名などは伏せますが、いくつものセミナーや団体に参加しました。ヒーリング、リーディング、チャネリング、コーチングetc
どこもそれなりに素晴らしい学びだったし、良いことを教えていただいたと思います。
でも心屋時代、一部の人に感じた違和感の、さらに強いものを感じる場面が多くなりました。


クオリティを保てる指導者はごくわずか


ひょんなことから運営側のサポートみたいなほうにも片足をつっこむことになった私。
一顧客だったときには見えなかった、スピ業界のオモテとウラ、矛盾が目に入ってくるようになりました。
そもそもスピ業界は、科学で証明できないものをメイン商品として扱うからこそ、売る方も買う方も「認められたい」「褒められたい」「有名になりたい」「稼ぎたい」などの暴走したエゴに足を絡め取られないよう細心の注意を払っていなければ、すぐにおかしなところへ転落してしまう危うい領域なのだということを目の当たりにします。

承認の奴隷となって言われるままに大枚を叩いたり(高額商品を購入すれば教祖様から特別扱いしてもらえるので、さらなる承認を求めてつぎ込めるだけお金をつぎ込む)、自分の優位を示すために霊能力を誇張するうちに虚言癖が常態化し、もはやどこまで嘘か自分でもわからなくなったり、リーダーの言うことを鵜呑みにして思考停止のお人形さん状態になったり(その方が断然ラクだからね)。

なんかね、口ではキレイなこと言ってても、やってることは要は奪い合いなんですよ。お金の。時間の。愛の。エネルギーの。
その様子はさながら、承認乞食同士のクレクレ地獄、マウント地獄。見てるのキツい笑笑

承認の奴隷となった信者は盲目的に教祖の言葉に従い、おかしいと感じても意義を唱えることはできず、もはやおかしいとさえも感じなくなっていく。
承認をエサに信者をコントロールする教祖は、自分の思い通りにならないと、鬼の形相でヒステリーを起こす。
なかなかの地獄ですよね?笑


何が狂わせるのか?

そんなちょっとした地獄絵図ではありますが、何がそうたらしめるのかと言えば、きっと根本はただただ
「寂しい」
なんだなとおもいます。見てほしい、愛してほしい、そんな飢餓感を我慢して、こじらせて、たどりついた先がたまたまスピ業界だった。(きっとスピ以外にも、そんな人のたどり着く先っていっぱいあるんだろうな)
そう思ってみると、なんだか哀しいし愛しいけど、そんな奪い合いの構造に気づいてしまったら、もう元には戻れない。友人のサポートもありやっと、わたしはスピ沼から足を洗いました。

スピにハマる理由

スピ業界あるあるは枚挙に暇がないし、わたし自身もかなりやりちらかしてきてるから、振り返るのもしんどいけどw

まあ要は、自分の中のどうしようもない空虚さと向き合うのが嫌で、外側の何かで埋めようと盲目的に依存した結果がスピ沼なんだと思います。

でも別に、だました業界側が悪いとか、ハマった信者がバカだとか言いたいわけではなく。
だってその時は分かち難く相互に惹かれ合う共同創造の産物だし、もっとシンプルに言うなら「需要と供給の一致」なだけだから、それはそれでよくって。よく手痛い経験を「勉強代だ」とか言うけど、スピやらかし体験も、まさに人生学習の教材代(時間と金)だと思えば良いのだと思います。稀有な経験積めたぜ、と。

でもそんな高額教材でわざわざ痛い学習してた自分に気づけたら、もう次のステップに進むタイミングなわけで。

つまりそれは
「承認を外に求める盲目の羊フェーズ」から
「100%の納得と責任をもって自分の人生を引き受けるフェーズ」への移行を意味します。

人生さいしょっから「自分の人生100%」って人もいるだろうけど、わざわざ一度「他者承認ほしさに100%他人色に染まる」って言うプレイをやったのちに見出す「まっさらな自分色」に出会えた時の感動って、たぶん何にも変え難いのではないかと思います。
だから、さんざんやらかしてきた黒歴史はぜーんぶおいしく人生ネタ帳にいただいて、ここからは自分の人生を、ひたすら目の前のことを大切にしてめっちゃ地味に、でもハッピーに過ごすのみだと思っております。


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