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「正しい」とか「正しくない」とか

あっという間に寒くなった。
私は夏が好きなんだと思ってたけど、てろてろの長袖シャツとスウェットだけで過ごせる秋の方が好きかもしれない。それに秋の空は飽きない。

夏休みに出会った、物理学生Aのせいで「正しいとは?」の無限ループに陥った。
(名前も所属も覚えてないけど、これが刺激的な出会いなのか!笑)

数字とか数式以外を "正しさ" の判断軸にする私たちは「科学者」じゃないのか、個人の価値観だとかエゴだとかと言われなきゃいけないのか。
こうやって一度、根本的なところでつまづくとその他全ての事が手につかなくなるから、呆れられるくらい先生たちの研究室に入り浸ったし、唯一付き合ってくれる同期と議論に議論。今回は本当にたくさん話を聞いた。

結局、"幸せの質を数字にするのは、手段であって目的じゃない" ということに落ち着いた。
ありがとう2019年10月11日の朝日新聞、ありがとう付き合ってくれた人々。笑
"科学" はもっと広義で、私たちは物理とは違うフィールドにいるってことになる。

みんな が同じ "正しい" を持つのがいかに難しいことか、2年前のモロッコで感じたんだった。

そういう社会でどうやって人間を全うするのか、公式がないけど最大公約数はどんなものになるのかを考えることが、私たちの to do で、私のバトルフィールドなのかな、と思う。

きっと、"想像できること" は強い。

"田舎育ち" の持つ資本も、"都会住み" の持つ資本も私は持っていて、ちょっとずつ生かせるようになってきた気がする。


私は新しいこの場所で、好きなことをばかりに頭を悩ませたり時間を使うことができる平凡な幸せを手に入れているけど、世の中は悲しいニュースを量産しているし、それに対するリアクションも相当ひどい。

この社会は多様だけど、多様性には寛容じゃない。

物理的距離がこんなに離れていても、私のことを搾取しにかかってくる出来事がありすぎる。

どうして "経験的な正しい" と "価値判断の正しい" を混ぜちゃうのか。
どうして "年齢" とか "学生" とかのただのラベルを笑えるのか。
どうして "男の人じゃないから" って我慢とか遠慮とかを強いられなきゃいけないのか。
どうして我慢とか遠慮が「美」なのか。
どうして意見を持つことが悪目立ちするのか。
"気づく" ほど生きづらくなっててもいいのか。
あげたらキリがない…
人間も政治も報道も誰のために、何のために、あるのか分からなすぎる。

私ですらこんなに気づくんだから、もっともっと日常なんだろうな。

どうか"気づく"勇気を、大事な人を想像できる力を。

やっぱり一番の近道は "思い浮かぶ誰かの話" にすることだと思う。

気づいてしまったら、生きづらいと思う。
けど、気づかないように生きてたら、それは誰かを搾取し続けるんだよ。

「正しいから」「おかしいから」を根拠に、対話するのは少し違うな、と気づいた。さて、どうしようか。


そんなこんなでモヤっとしてるけど、この社会と人間の煩わしさが私のバトルフィールドの楽しさなの!!今日も私は元気です。

#正義の話


肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。