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サミシイの温度

 金曜の午後5時30分ちょうど、胸ポケットのスマートフォンが鳴り始めた。定時になったばかりの電話は心臓に悪い。ことと次第によっては残業確定、更には土日返上のこともあるのだから…
 どうぞ取引先ではありませんようにと祈りつつ相手を確認すると、こんな時間に珍しい人からだった。席を立って誰もいないフリースペースに急ぐ。

「もしもし?どうしたの?」
できるだけ落ち着いてやさしい声を心掛ける。日頃、こんな時間に通話ボタンをタップするような相手ではない。何かあったに違いない…変な焦りで息苦しくて、無意識にネクタイを緩めていた。
「ごめんね。忙しい時間だとは思ったんだけど我慢できなくなって…」
消えそうな声が耳に届く。
「何かあったの?今日は仕事じゃなかったよね?」
「声がね、聞きたかったの。大丈夫って呪文で自分に言い聞かせながら頑張ったんだけどね、どうしてもダメだったの」
「呪文?」
「前に教えてくれたでしょ?『夕暮れ時の切なさは気温変化による錯覚だと思えばいいのか?』って研究した論文の話。秋の夕暮れの気温変化は人間の本能として残っている冬への危機感が不安を引き起こして人間が切ないと感じるんだって。だから『私が切ないのは秋の気温のせい』って呪文みたいに唱えて我慢してたの!」
「頑張って我慢してたの?」
「うん…我慢してた…」

 電話の相手は今年の春、遠距離になった彼女から。
残業にはならなかったけれど、これはこれで由々しき問題である。仕事をしている姿は、かっこいい女性を具現化したようなのに、実は能力をほぼ仕事に全振りして私生活を放棄するタイプの人なのだ。この春までは同じ課で仕事をしていたのだが、自分が本社勤務になって車で2時間の距離になった。遠いと言えば遠く、さほど遠くではないと言われればそうという微妙な距離感。何かあればすぐに会いに行けそうで行けないこの距離感。更に彼女は自分より3歳年上という年の差の問題を気にし過ぎている。すぐにお姉さんだからって気負ったり我慢するところも可愛いとは思うけれど、素直な気持ちをなかなか見せてくれない。

「もしかして、定時になるの待って電話してくれたの?帰る支度してまた電話する!」

 大急ぎで帰り支度を済ませ車に乗り込みながら彼女に電話をした。1コールで出てくれたのを考えると、ずっとスマートフォンを握りしめて待っていてくれたのかもと思って頬が緩む。
「電話ありがとう。」
照れたような安堵したような笑いが浮かぶ声。こういうところがお姉さんを装っていても隠しきれない可愛らしさで、こちらも釣られて笑ってしまう。遠距離になって7ヶ月、離れていることにも慣れたかなと思っていたのに、実は我慢させていたかもしれないなと考えて、運転をしながら彼女の話を聞く。どうやら今抱えている案件で問題が発生しているのと後輩のサポートに入らざるを得ない状況らしいことを聞き出した。この状態なら、日常生活もボロボロだろうと察する。

「あー…俺、オカンモード入った」
「ん?」
「いや、だから…今のあなたはベッドの上に乾いた洗濯物を置いてソファで寝て、コンビニ弁当とか食って生きてるでしょ?」
「そんな事ないよ!」
「本当に?」
「へ…いき…うん、平気!」
 わかりやすい…実にわかりやすい反応で自分の想像が間違っていないことを確信した。
「もしかしてご飯作る元気ない?冷凍の温めるだけで食べられるご飯とおかずのセットとか手配しようか?」
「それよりも、ご飯食べなくてもいい世界線はどこ?」
「今しばらくお待ちくださいって感じかな…って言うかボロ出したね?」
「あっ…」
「仕事に能力全振りしちゃダメだよ!やればできる子なんだから!」
「うん。バランス良くとは思うんだけど、監視してくれる人がいないからさぁ」
「俺のこと?…あ、ごめんちょっと買い物するわ」
「あ、ごめん!もう2時間近く喋ってるからご飯食べないとだね!切るよ…」
「買い物済ませたらまた電話すると思うから、後でね」
 車を降りてよく知っているスーパーで買い物を済ませながら先程まで話していたせいか、彼女が隣にいるような錯覚を覚える。会計を済ませて外に出ると少し秋の匂いを含んだ風に吹かれた。
「この感じが切ないを呼び起こしてるのか、それとも欲してもらっているのか、どちらにせよ俺も逢いたいのよ」
そんな言葉を口走っていた。

車を駐車場に停め、マンションのエントランスを抜けて部屋の鍵を開ける。薄暗い廊下をまっすぐに進んで扉を開いた。

「はい、どうも、お部屋の状態は思った通りでした」
出張用のスーツケースを前にソファーに寄りかかって眠る彼女の耳元に囁きかける。驚いて飛び起き、口をぱくぱくするばかりのかわいい姿を堪能して夕食の準備に取り掛かった。


「え?何してるの?どうしたの?」
「淋しくなっちゃったんでしょ?気温の変化についていけないんだったら、俺の体温足したらどうにかなるかなって思って」
頭の上に「?」や「!」をたくさん飛ばして混乱する可愛い人に
「ベッドの服は仕舞わないと、ソファーに2人は窮屈だからよろしくね」
と、笑いかけた。




【One Phrase To Story 企画作品】
「夕暮れ時の切なさは気温変化による錯覚だと思えばいいのか?」

side Pawn https://note.com/pawn_queen_sing/n/nb4a95e75d2e0


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