肉が救え
宗教の話をします。なにか特定の宗教を信じてたり、思い入れのある人は回れ右してください。
私は無宗教の家に生まれたけど、神様を信じている。キリスト教ではあるけど、創造神ヤーウェではなく、キリスト教の異端派、グノーシス神話に出てくる、ヤーウェよりもさらに上位の存在である至高神を信じている。こんな理不尽な世界を作った神様を、私は手放しに讃えられない。
私は大学の卒業論文で「ブロマンスとして読む『 新約聖書』と『 ユダの福音書』」というテーマを打ち立てた。打ち立てようとしてた。大学3年の夏休みまで聖書を手に取ったこともなかった私はこの半年、一生懸命聖書を読み、グノーシス主義のユダの福音書を読み、荒井献の本を読み、そのほか色んなユダやイエスについての文献を漁り、ゼミ発表準備をせっせとして……史的イエスなんて、本当のイエスなんてどこにもいなくて、荒井献が聖書の中に見たイエスも、遠藤周作が夢をたくしたイエスも、結局彼らが「見たい」と思ったイエスであることに気づいた。気づいたというか、実感してしまった。認めるのが嫌で、先延ばしにしてきたけどこの間、3年生のゼミ発表が最後の日を迎え、私は結局「史的イエスなどどこにもなく、彼らが描いたイエスも、私が書きたいイエスも、究極的にフィクションだ」とたったペラ紙2枚に書いて、先生に謝りながら発表した。今まではレジュメもハンドアウトも結構な枚数を用意していってたから、本当に情けなくて不甲斐なくて、死んでしまいたいと思った。2年生の時からずっと目をかけてくれている先生に申し訳が立たない。論考にするために、たくさんヒントをくれたのに、私はこれっぽっちも活かすことができなかった。
私が聖書の中に見たイエスは、ただの人間だった。御言葉ではなくて、肉を持った人間を見た。けれど、そんな記述はどこにもない。肉を持った人間であるという記述がない代わりに、彼が肉を持たなかったとも記述はない。遺されたナザレ派の人達が苦労してつくりあげた「宣教的イエス」はある程度、みんなが想像しやすいようになっている。これを築き上げるのにどれだけ苦労をしただろう。
神の代行者であるとも、神の愛を伝えたかったとも、一言も書いてない。ローマと戦う気はなかったとか、ユダヤ教から離反する気はなかったとか、全ては結果論で、イエスの人となりも、何を思ってこの時に、この言葉を選んで伝えたのか、本当に戦う気はなかったのか、分からない。何もわからなかった。世界で一番美しく磨き抜かれた鏡で、読む人はイエスを考える時、自分を見る。自分にとってのこうあって欲しいメシアを、イエスに託す。そのために一切のくもりなく、人間性を、肉を剥奪されたのだ、と思うと、私は悲しくて仕方がなかった。機械仕掛けの神様みたい。
ユダも同じようなものだけど、彼には卑劣な裏切り者だという役割があるから、ほんの少しだけ人となりがわかる。けれど、それだって教会に都合のいいようにするためで、本当にユダが何を考えていたのかなんて、わからない。どうしてイエスについて行ったのかすら、私たちには教えて貰えない。ほかの使徒は使徒行伝でわかるのに、ユダがどうやって死んだのか、知る術がない。おそらく首吊りだろう、という状況証拠を揃えてようやく推測ができる、そんな程度。寂しいことをしないで。
100%正しい読みはないよ、真理はないよ、と先生に言われた。世界中、多くの人々を導いてきたはずの聖書を読むための真理がないなんて、あんまりだ。「宣教的イエス」に基づけば一応は見つけられるのだろうけど、教会的に正しいのが絶対ですか? それは違うと思う。
私が見たイエスもユダも、実体のない御言葉ではなく、圧倒的な生を纏った肉が救って欲しいから、それを押し付けてるに過ぎないんだ。だから、これを論考でやるのは無理。断片的な史的イエスと「宣教的イエス」から外れるなら、逆立ちしても論理的に立証できず、突飛なファンタジーにしかなれない。だから遠藤周作も、これは事実ではなく、真実だと繰り返したし、荒井献も伝承のみから史的イエスを見つけ出すのは不可能に近いと言った。ああそういうことだったのか、と気づくのに半年もかけてしまった。
同じゼミに所属している人がニーチェに近いですね、と言った。ニーチェは模範的なプロテスタントで、なおかつ人間としてのイエスを信仰していた節がある、と。私は藁にもすがる思いで、「ツァラトゥストラはかく語りき」を読み始めた。原典はハードルが高いのでまずは100分de名著を。
もう一ページ目でダメだった。新しい聖書、聖書のパロディ、ツァラトゥストラという架空の預言者の話。ニーチェですら、論理的に立証できずに創作を選んだ。もうダメだ。ニーチェは神の王国が来ないことを悟って、次の神様になって人間を救おうとして、救えなくて発狂しながら死んでいったんだと思った。ニーチェは友達が少ないけど、きっと世界と人間が大好きだったんだと思う。そうじゃなきゃ新しい聖書を作ろうなんて思わない。
実は私も、ニーチェと同じようなことをしようとしていた。この世の全てを手に入れて、何もかもの基準になって、神と完全に手を切って、人間が人間を救う時代を作りたかった。神に祈るのをもうやめたかった。奇跡を起こしてるのはいつも人間だと、言いたかった。でもその先に待ってるのは発狂自殺エンド。誰も世界を照らせない。オワオワリ!^^
キリスト教の外で育った私は、今も神がいないことを嘆いて枕を濡らしながらこれを書いている。私ですらこんなに悲しいのに、牧師の子供として生まれ、敬虔な信徒だったニーチェの絶望の深さよ、はかり知ることは一生できないのだろう。
悲しくて仕方がない。ご飯も上手く食べられないくらい、神がいないことが悲しい。こんなに落ち込むほど、私は神を信じていたのだ。ああ、こんなに書いてもまだ、思ってることの4分の1も吐き出せてない。辛い、ただただ辛い。
話しても、白い目で見られることはわかっているからnoteで吐き出すしかない。助けてください、
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