獣になる才能
ニーチェはすごいなぁ、と常々思う。あの人はキリスト教圏に生まれ、敬虔な信徒の子として生まれ、敬虔な信徒のまま神を解剖し、己を解剖し、死んでいった。最後は発狂しながら死んでいった。彼は獣になったのだ。獣になり、自然に還っていった。その才能があった。
ニーチェはマゾヒズムの気がある(なんの文献でそんなようなことが書かれていたのか忘れたけど、何となくわかってしまう)けれど、それは人間を辞める才能があるということ。彼は獣になれたのだ。
爪切りから風呂からご飯を食べること、排泄まで全部他人に任せてみたことがある。どうしても人間でいることに耐えられなくて。でも今度は、獣でいることに耐えられなかった。羞恥とかいうちっぽけな感情ではなくて、もっと本能に近いところが軋んで、私はそこから逃げ出した。獣になる才能がなかった。さりとて、持て余した感情や思考、理性を抱えることができない私は人になることも叶わず、詩人になるしかなかった。詩を捨てた人から大人になるのだと寺山修司はいった。その通りである。人にも獣にもなれないから、自然に還ることも、誰かに飼い慣らされることも(私は星の王子さまがすきなので"飼い慣らす"という表現がとてもすき)、理性を保つことも、物語を紡ぐことも出来ない。うたも歌えない。人らしくルールを守ることができない。詩人というのは創作しているジャンルを指すのではなく、職業を指すのではなく、魂の在り方のことなのかもしれない。
ニーチェは獣になれたから詩人とは呼ばれずに哲学者と呼ばれる。神を信じきることも、捨て去ることもできない。生きている人間を神様として信仰するなんて、中途半端で生きている。出来ないことばかりのくせに、全部認めて誰かに預けることも満足にできない。ニーチェがひどく羨ましい。
聖書を解剖した末に、きっとニーチェと私は同じものを見た。それはとてもとても苦しかった。神なんていないこと、神を作ったのは人間で、それを殺したのも人間。実感を得てしまうことは不幸。それを直視したとき、進むか戻るかの二択があるように思える。その狂気に身を委ねて獣になるか、全部ふりきって神を信じる人になるか。私はまだ何にも選べていない。行ったり戻ったりを繰り返している。ずっとずっと宙ぶらりん。痛いって喚きながら自分で自分を解剖して楽しくなって、これは狂ってる事なんだって自覚することでしか正気を確認する術がない。身に余る感情を他人に差し出すことでしか眠れない。真ん中に立ってちぎれそうになっていく。その苦悶が詩なんだろうか。
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