思考整理


私はひとりではない。決して孤独ではないとかそういうおべんちゃらが言いたいのではなく、私の中に誰かいるという感覚がある、ということ。これは離人症というらしい。人格障害とは違って記憶の連続性はあるし自己の認識が曖昧になるのではない。私の場合は一人称がバラバラで(俺、私、僕)、ストレスがひどくなると頭の中で何人もごちゃごちゃ喚いているように思考がめちゃくちゃになるし、自分が自分じゃないような気持ちになる。完全に手放すのではないけど、風船から伸びる細い糸を必死に掴んでいるような。詩を書く時は大抵、そういう時。私の中にいるちっぽけで一番弱い僕を、認めるために解剖して細分化して、調理して飲み込んでしまう行為。自分を殺す、とも言うのだろう。でも細分化すると同時に、私がちゃんとひとつで、根源は変わらないことを確かめる行為だ。自分を生かすための。あるいは、私がちゃんとひとつだった頃の回想。あるいは、泣いてばかりの僕を見つめる私の視線。あるいは、めちゃくちゃにされた僕の慟哭。

俺、俺のことはよく分からない。俺はきっと男なのだろう。私は自分の性別にずっと違和を抱えて生きてきた。男の体になりたいとか、嫌悪感はなくて、ただただあ、容れ物を間違えたな、という感覚。だから俺はきっと、容れ物を間違えなかった時の自分。この体から、檻から出せと暴れているけれど、ゆうゆうと女の体を楽しんでもいる。自己中心的で私の悪いところを全部煮詰めたみたい。でもいやにしっくりくる一人称で、女扱いされない時に湧き上がってくる喜びはこいつがいるためなのだろう。

主人格なんてない、人格は断絶してない。全部が曖昧につながって、時折強く顔を出すだけ。でも端にいけばいくほど離れていく。それを切り離そうとしたり、くっつけようとしたり、それが私の詩。言葉がないまま、ちゃんと私が私だった頃に帰ることができるのなら、言葉なんていらない。やっぱり詩にとって、言葉は飾りだ。でも言葉以外に私はアクセス方法を知らない。スポーツでも音楽でもダンスでもなく、小説でも戯曲でもエッセイでも映画でもなく、詩だった。それ以上でもそれ以下でもない。呼吸、食事、セックスと同じきっと。切り離す時ちょっぴり痛いけど楽しかった。

崇拝している人間が生きていることを認めた。認めたい、と願っている。移り変わっていく、私が一番弟子じゃなくなっていく。私の大切は彼女じゃなくなっていく。それを良しとしたい。そのための、過去にするための詩。祈りを言葉にして、紙に印字して、届けないまま破り捨てて、現在進行形を失わせる。馬鹿げてる、ただのかっこつけ、わかっています。118篇の詩を読むのは拷問だ、と先生が言った。118個の細分化された情動を読むのは辛かろうな。作者と作品の距離が近いと言った。そうだよ我が身を切り離したものだもの。それで、それで正しいのだ。

切り捨てた人たちが根も葉もないことで私を責め立てた時、私は筆をとらなかった。私を心棒した人を裏切りへ走らせた時、私は言葉を発さなかった。イエスが友よ、としか言えなかったのもこういう心地だったのだろうか。でもやっぱり、世界でいちばん美しい、自己を投影するための鏡である聖書には答えはない。傷も曇りもない、磨かれた完璧な鏡。この人間性も私の人間性。

ここまで打ち込むまで何度も僕、と一人称を書いては消した。その度に何か潰されてないか、削られてないか、ハラハラしてしまう。

言葉は飾りで、何がその時生きている人の心を動かすのかなんてのは、時代と共に移り変わる。もちろん、時代を越えて届き続けるものもあるけれど、大半はそうでは無い。詩は、言葉で飾り付けた感情の芯が読者に届けばいいのだから、描写してる感情や風景なんてのは究極なくたって同じ。でもその描写しているものがなければ私たちは共有ができない。そんなあまりにも寂しいことを抱えて2000年も生きてきた。文壇から一笑されて終わる、所謂ポエム(笑)なインフルエンサーやブロガーのツイートまとめ本だって、確かに心を動かされる人がいて、読者がいて、お金になるから本になる。どれだけ出版物の質が落ちていても、心が動いた誰かがいるのは間違いないのだ。ならばどれだけ拙くても立派に詩と読んでもいいのではないだろうか。ポエム(笑)と詩の違いはなんだろう。一度、蔦屋書店の発起人である人に聞いたことがあるけど、その人も知らなかった。「私」が先行してるから詩では無い? じゃあもう梶井基次郎を詩的なんて呼ばないでね。いかにも安っぽいから詩では無い? その価値は誰が決めたのだろう。手垢まみれの表現に価値はないのだろうか。娯楽か芸術かの線引きをどこに引けばいいのだろう。それは椅子に座る、偉い人たちが決めるの?

梶井で思い出したけど、うつ傾向の強いひとは文章を書くとよく、一人称が前に出るらしい。私、私私私。梶井も私も否定できないから笑ってしまったし、笑われた。

私のやろうとしてた論考だって、祈りのひとつだった。少し形を変えただけで、私にとって大きく変わったつもりはない。共感なんて求めてない、でも、読んだ人が共感してくれたら嬉しい。きっと共有はしたいから。私も現代人だから。気がついた時にはシェアボタンがそこにあったから。読者なんて求めてない。でも、読んでくれる人が欲しい。きっとリストカットの傷を嬉しそうに見せるのとおなじ。かさぶたをえぐって肉と新鮮な空気が触れ合うにおいをずっと嗅いで、嫌いな奴の目の前で胸をかっさばいて、お前のせいだよって笑って死にたい。でも最後は、崇拝してる人間に「きみは本当に最低だ」って言われてみたい。私が死んだ後に全部読んでねって遺書をしたためるための詩。ケセ・ク・セ・デグラス。




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