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意図のない話にも意味はあるという話

意図のない話

 世の中には、バカバカしくてウソか本当かわからないような話があるものだ。

さくらももこ『もものかんづめ』(集英社)

 これは、伝説的・天才的な漫画家が遺した「意図のない話」というエッセイ、その書き出し部分である。

 『もものかんづめ』には「奇跡の水虫治療」や「メルヘン翁」などの怪作が収録されているが、その中でも「意図のない話」は形式・内容の両面において異彩を放つ作品だと思っている。
 (もっとも、作品のもつ破壊力・インパクトという点では、やはり「メルヘン翁」が頭抜けている。読者を選び、好みも大きく分かれるものかもしれないが……。)

 未読の方もいらっしゃるだろう。そのような方には是非まっさらな状態で作品を味わっていただきたいため、内容については触れないでおく。
 ただ、責任が取れないため……『もものかんづめ』全体を通して、いや、さくらももこ先生のエッセイの多くに言えることであるが、電車内や病院などの公共の場で読むのは止したほうが良いであろうという注意書きも、しっかりココに明記しておく。

 「意図のない話」の形式について簡単に説明をすると、「その1」から「その6」までの、言うなればショートショートエッセイを集めた形になっている。サクッサクッと口に入っていく お菓子のように、軽〜く読めてしまう。あとの食事にも支障は出ない。

そういうモノが書けるヒトに
ワタシはなりたいっ

 ……前置きが長くなってしまったが、ワタシは、そんな小さな小さな文章・作品を書いてみたいのだ。というか、大きな大きなものは書けそうにない。

 なにせ、スケールを問わず、これまでの人生で書き始めたものが完成したということが殆んどないのだ。
 しかし、だからこそ小さくても良いから、「心にうつりゆく よしなしごと」を……「そこはかとなく」でも良いから。何かしらの形で、文章を書き上げてみたいという想いが在る。ずっと在った。

 想いだけが、長い年月を経て・圧縮され、化石燃料のようになっていた。

 そこに、このnoteという媒体との出会いがあり、思い立ったが吉秒、火が点いて燃え上がった。ぼんやりとした炎の中から生まれたのが、この記事というわけである。

意味はある

 急に話を戻すが、「意図のない話」というタイトルでまとめ上げられてはいるものの、流石さくらももこ先生、その締めくくりは見事なものだ。
 え、それは本記事で語られるものではなかったのか、と思われるかもしれないが、「意図のない話にも意味はある」という見解のようなものさえ、実は既に そこに書かれている。

 では、既に他の方によって書かれているようなことをデッカデッカとタイトルに掲げている、本記事の存在意義とは。この記事に、生まれた意味はありますの?

 非常に個人的な話になる。
 ある日、動けなくなってしまった。その後、ずるずると昼夜が逆転していった。気がついたら引きこもり生活が始まってしまっていた。そんな中、今のワタシには……小さいかもしれないが、一つ、行動を起こしたいと思えるような着火剤・エネルギー源になってくれた。
 早い話が、自己満足というやつである。この記事を、こんなところまで読んでくれたアナタの眼に どう映ったかは分からない。というか、おそらく無意味であったことだろう。読み手の側に必ずしも意味がなければならないわけではないと考えている自分もいる。
 とにかく、少なくともワタシにとっては、行動を起こしてみた結果としての・形になったことでの、意味は生じた。

 すぐそこで待ち構えているのだろうか、三日と続かぬ坊主の気配が感じられて不安だけれども。せっかく点いた火である。枯葉や木くず、細い木の枝から薪へと移していきながら、火を大きくするように。これからも、何かしら書いていけたらと思う。

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