見出し画像

真昼間、バス停。

 画材道具を背負った背中が、重い。
 前に抱えた小さな命が、熱い。

 赤ん坊は胸の前ですやすや眠っていた。必死にあげた乳が思いのほか出て、彼の顔をびしゃびしゃにしてしまったが、溺れることはなく、乳首に食らいついて一生懸命吸い上げてくれた。乳と満腹が効いたらしく、多少動いても背中のキャンバスリュックがガシャガシャ鳴っても、起きなかった。

 見上げた時刻表には余白が多く、次のバスまでだいぶ時間があった。バス停には屋根があるとはいえ、駅前ロータリーの照り返しで余計に暑い。家を出るのを遅らせるべきだったか。

 家を出る時、母はまだ寝ていた。父のいる墓に手を合わせてから行こうかと思ったが、玄関を一歩出たら暑すぎたのでやめた。

 赤ん坊を抱えて実家に着いた時、母は開いた口が本当に塞がっておらず、何度も、「あんたはほんとに。ほんとにもう、あんたは。」としばらく繰り返していたが、荷物を下ろす時に彼を抱いてもらってからはもうずっとニコニコしており、母の肝の据わり方にまたも救われた、と思った。父親は誰なのか、質問攻めは夕飯時に行われたが、全然口を割らない私に『諦観』という感じのすばらしい顔で、ここに居たらいいと言ってくれた。 
 それから、
「母親っぽい格好するとかやっぱりないわね、あたしと一緒。」
と言われた。

「またそんな格好して。」

 大学の図書館前のベンチでマンゴフラペチーノを啜っていた時、前を通った大黒屋八郎太が眉を顰めて私に言った。
 切りっぱなしのホットパンツとヨレた白のタンクトップは絵の具で汚れていた。別に構わなかった。楽なのがとにかく大切なのだ。描く時のパフォーマンスを左右するから。

「そっちだって毛無し作務衣じゃん、寺の坊主かよ。」
「いや、サモンに貰ってさ。すげぇ楽。スキンヘッドは似合うだろ、どう見ても。」

 サモンは八郎太の幼馴染で、こちらも山門橋恭順というご大層な名前だった。私たちは同郷だった。山も海もある田舎から東京まできて同じ大学になったと知った時、

「無茶苦茶仲がいいと思われたらやだな。」

と二人に言ったら、げらげら笑いながら、

「安心しろ、つきまとわんから。俺らだってそんな暇じゃねぇわ。」

と交互に言われた。

「サモンはお寺継がないのかな。」
「サモンの実家から送られてきた作務衣、3着あったけど、今ぜーんぶ俺の。」
 近況を報告しあって、手を振って別れた。八郎太は四角い顔にだるま的ギョロ目で、ガタイもいいせいか全然同い年に見えず、スキンヘッドでさらに年齢不詳臭を撒き散らしていた。作務衣の後姿を見送りながら、
「六実さんと全然似てないわ。」
と呟いて、噛み潰したストローから最後のマンゴー味を飲み干した。

 六実さんは中高の先輩だった。全校生徒憧れの超絶美人で、画家を志す私のパトロンだ。そういうお金の使い方を自分で覚えるのが大黒屋家の方針だそうで、地元で名を知らぬ者はいない裕福さを存分に活かしていた。

 八郎太を弟だと紹介された時、同い年なわけないと思った。浴衣に坊主だったし。サモンはその時普通に学生服で、赤いエレキの何かを抱えていた。

「ああ、海の絵の人。」

 八郎太より先にサモンがそう言った。

「俺、あの絵、好きよ。」

 うっわ、チャラい、と思って、六実さんの後ろに隠れるように一歩下がった。六実さんは笑いながら、
「サモちゃんのチャラさは、お寺さんの息子のコミュ力だから許したげて。」
と私の頭をわしわし撫でた。

六実さんが、
とにかく、
大好きだった。

のに。

 八郎太とすれ違ってから数日後、六実さんは駆け落ちした。私にはすぐ連絡があったけど、思った。

 裏切り者。

 その日の夜、家近くのコンビニで、サモンに会った。

「どした、酒飲めんだろう。」
 銀のビール缶が5本入ったカゴを覗き込んで、サモンが言った。
「暇ならうちくれば?楽しいことをしようじゃないの。」
 私はそう言ってサモンに絡み付いた。
「いや、やめとく。」
「寺の息子はくそ真面目。」
「いやいや今日行ったら若気の至りってのを実行する気がする。」
「若さ故のいたれりつくせりをば。」
「もう酔ってないか?」

 朝、目覚めて目に入ったのは、知らない部屋の中の赤いギターだった。隣のサモンの背中が白かった。

 それから、

 自分のお腹がなんだか光って見えた。

 ほんの一瞬だったけど、光って見えた。

(おお。たった一回で?)

 一瞬だったが確信だった。音を立てずに部屋を出てから、急に嬉しさが下腹から爆発して、音を立てずに外階段を降りるのに苦労した。

 それからまずしたことは引越しだった。携帯も解約したし、とにかく誰も知らないところでこっそり産もうと決めた。結局お金に困って六実さんに連絡しちゃったけど、サモン含め他言無用を強要した。好きだったわけでもないし、一夜のことだし、奴はモテるからすぐ忘れるだろうし問題ないのでは?と本当に思っていた。私が産みたいだけだし。


 時刻表を見ながら、蝉時雨の中で頭がぼぅっとしていくのを感じた。

 時刻表から目を逸らしたら、山の緑と空の青さがあんまりはっきりしていて更に気が遠くなるような気がした。

 熱中症かも。

急に後ろで大きな音がした。
振り返ると、自転車が軒並み倒れていた。
その列の1番端に倒れているのは、黄色い原付だった。
投げ出されたみたいな倒れ方、と思っていたら、
視界の端に金の細い帯みたいなものがひらりと揺れた。

物凄い勢いで走ってくる、袈裟姿の男がいた。

「…あ!」

 逃げようと背を向けたが、左腕を思い切り掴まれた。
 反動でリュックの脇ポケットからアクリル絵の具が箱ごと飛び出して散らばった。

「虹子!!!」

 サモンのスニーカーで踏まれた絵の具から色が広がって、さながら虹のようだと思った。自分の名前だし。

「なん、どうして、その子、え、誰の!?」

 サモンは一気に吹き出す疑問の渦に飲まれて溺れんばかりで、一つも言葉が繋がらなかった。笑ったら、

「何笑ってんだ!」

と怒られた。

 寝ていた子が泣き出した。

「あ〜、ごめんごめん。」

 サモンは私から手を離して子の背を撫でた。
 私は観念して、言った。

「この子は、虹に順番の順で、虹順。」

サモンは、

山門橋恭順は、

右手で両目を覆って、

「あ〜…。」

と天を仰いだ。

長くなるな、と思った。

別に一人でいいのに、私は。

しろくまʕ ・ω・ )はなまめとわし(*´ω`*)ヨシコンヌがお伝えしたい「かわいい」「おいしい」「たのしい」「愛しい」「すごい」ものについて、書いています。読んでくださってありがとうございます!