学芸美術 画家の心 第56回「ピエール・オーギュスト=ルノワール ポール・デュラン=リュエル 1910年」
四角い顔にふてぶてしい態度、この男はいったい誰なのだ。しかもしかめっ面で不機嫌そうだ。いかにも面倒臭そうにふんぞり返っている。
四角い顔にふてぶてしい態度、この男はいったい誰なのだ。しかもしかめっ面で不機嫌そうだ。いかにも面倒臭そうにふんぞり返っている。
この人物を描いている画家は我われの知るルノアールだ。そんな有名な画家のモデルになるのだから、もう少し機嫌のいい顔をしてもいいのではないだろうか。
この不機嫌男の名はポール・デュラン=リュエルと言い、近代画商の草分けとなる人物だが、そう呼ばれるようになるまでにどもような経緯があったのだろうか。
リュエル以前、画商は存在していたのだろうか、いたとして彼らはいったい何をしていたのだろうか。
彼らは、貴族や高僧たちが自分たちの権威を誇示すための自画像を、国王が認めたアカデミーに所属する一流の画家たちに金にものを言わせ求めた。このときその依頼を仲立ちをする人物がおり、この人物こそが画商と呼ばれる人たちだった。
ではそれに対してデュラン=リュエルは何をやり近代画商と呼ばれるようになったのだろうか。
時は1800年代も晩年になりフランスの権力は王侯貴族から中産階級へと大きく変わろうとしていた。しかし絵画の世界は写実主義のアカデミー勢力が依然として強い勢力を維持し、印象派の画家たちは傍流とされ、彼らの生活は困窮していた。
デュラン=リュエルは、これからの絵画は印象派の時代になると固く信じていたが、印象派の絵が思惑どおりに売れることはなかった。
それでデュランは、印象派の画家たちの育成と生活を維持させるため彼らの絵を大量に買い取った。
例えば、ルノワールの絵は1500点、モネ1000点、ピサロ800点、シスレー400点、メアリー・カサット400点、マネ200点など、合わせて5000点にも及ぶ印象派の絵を買い集め、特にドガ、マネ、モリゾ、ピサロ、ルノワール、そしてシスレーたちはリュエルからの支援を大いに受けていた。
ルノワールは金に困るとリュエル宅を訪ね、金を無心した。その代わりに彼の肖像画を描いたのだ。
リュエルは腹の底では苦々しく思っている。
「俺なんかの絵が将来売れるわけない。それなのに数十フランで買わされる。今回で何枚目だ。このままでは俺もつぶれてしまう。一日でも早くこの状況を何とかしなければ。本当に困ったもんだ……」
ぶつぶつこぼしながらもデュラン=リュエルは印象派の画家たちを支え続けるのだった。
やがてデュランはそれらの作品をオルセー美術館やバーンズ・コレクションに売り、収めることに成功する。大画商になる第一歩を踏み出すことになる。
印象派の絵画が高額で取引されるようになるのは1898年アメリカでの印象派展が開かれてからで、アメリカ市場で成功したデュランは、アメリカ人の好意的な受け止め方に対して、
「アメリカの大衆は(印象派の絵を)笑ったりしない。買ってくれるのだ!」、と呟いたという。
デュラン=リュエルは保守的なフランスの購買層を見限り、アメリカの中産階級に「写実主義の絵はもう古い、印象派の絵画こそが最新なのだ」、と紹介した。
この言葉はアメリカ人の心をくすぐり、強く響くことになり、絵は売れに売れた。
そして、画家を育てそれを売るというこれまでにはなかった近代画商のロールモデルになっていく。
そして画家と画商、さらに絵画を専門とする評論家たちが「これこそがいい絵である」と評価し、その結果を新たに発達したメディアを通じて「売れる絵」が創造されていくことになる。
「売れる絵」と「美しい絵」、「癒される絵」、そして「感動する絵」、すなわち個人の心に訴える真の芸術とは乖離していくことになる。
そのことがやがて、「マリリン・モンロー事件」や「バンクシー事件」へと繋がっていくことになる。
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