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第21話 高等部進学と血液透析

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更に悪化する体に対応するべく、私の左腕の上腕に局所麻酔手術でシャントができました。(シャントとは、血液透析をする為に体内の動脈と静脈を手術で繋ぎ、流量の多い血管を造りだしたもので、内シャントと言います)

透析室に見学に行きました。
確か5床だったかな?ベッドが並んでいて、血液が外へ巡っていました。不思議と怖いとは思わなかったですね。

私の透析中の機械です。
左の棒が人工腎臓(ダイアライザー)です。

先輩が3人血液透析をしていたのもありましたが、私は色んな事を受け入れてきたからか、次はこれか、、とわりとすんなり受け入れたんです。

1991年4月25日血液透析を開始した日です。2個目の誕生日です。透析をしなければ1ヶ月以内に死んでしまいうのです。だから、大切な日なんです。

ですが、、、針が極太!爪楊枝くらい。初めて刺される時、逃げたくなりました。でも、ガッチリ看護師さんに押さえつけられてました。私の血管が細くて何度か刺し直しもありました。

学校は早退して透析を受けに行ってました。

そして、私は4月から大府養護学校高等部に進学していました。院内学級ではなく本当の学校内に通っていました。病院から300m程です。
でも、変わらず2週間に1度は愛知県心身障害者コロニー中央病院の小児外科外来受診し、管の交換をしてもらっていました。

父に送迎をしてもらっていたのですが、その時に母の陰口を私にずっと車内で言うのです。家から小児外科へ、そこから大府市の小児科へ。車内でずっと。
私の心の様子など気にもしない。

私を大切にしてるからこそ、送迎をしてくれてるのでしょうが、自分が正しいと思って曲げない頑固な所があります。
ここでも私の得意なフリです。聞いてるフリ。同意はしませんでしたが。

ある日、自分の弁護士さんの所へ勝手に一言もなく連れていかれました。私が頷きもしないから、最終手段です。

「俺の言ってる事が正しいから、こいつに言ってやってくれ。」

弁護士さんと私は別室で、2人で話しました。
「お母さんを2週間見張ったけど、ご実家にお金を送るようなことはしてなかったから、貴女が夫婦の橋渡しをしなさい。」

こくりと頷き、出て父に言いました。
「お父さんにはお母さん以上の人はいないと思う。お父さん歳とってから、お茶一緒に飲んでくれる人、他にいるの?」

父はふぅーんと、弁護士に裏切られたような顔をして、何も言わず立ち去りました。私はとことこ着いていくしかありませんが、それから車内ではずっと無言になりました。
私が自動車免許証を取得し、車を運転するようになるまで。

愛って、こういったものではないと思うんだけど。。私は助けてもらわないと生きていけないし。
とんちんかんな親で本当に困って辛かったです。
母は無言で堪える人でしたし。心の奥で父をちゃんと愛していたからこそ、父が亡くなるまで頑張れた。そこは尊敬しています。

父は鉄工所を経営していました。小さな下請け会社ですが、金銭的に支えてくれていました。

それは亡くなってから、ひしひしと感じるようになります。


本当の愛は、無償の愛。
心の基盤が出来ていた自分には、両親のとんちんかんな愛が、何となく分かってたね!

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