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『千と千尋の神隠し』と欲望

金曜ロードショーで『千と千尋の神隠し』を観ました。今年は辰年です。

物語の最後に、なぜ千尋は豚々(ぶたぶた)のなかに父母がいないことが分かったか、という疑問に対して、今現在での理解として書き留めておくことにします。これは正解でも考察でもありません。


飲食店のバイトから帰宅して22時過ぎのファミリーマートで店の中を徘徊している。今日はお客さんがたくさんで、皿洗いを何時間もしてとても疲れている、この疲れを癒せる何かがあるかもしれない。けれど、ありとあらゆるものが並んでいる場所で、ただぼんやり物を眺めているだけで何も選べず、何も買わずにトボトボと家に帰るとき、こんなに悲しいことはないと思う。食べたいものがあるわけではなくて、食べたいものを見つけるためにコンビニに行く、それをやめられずにいます。

私は何を望んでいるのか。私は何が欲しいのか。本当のところは自分が一番分からない。私はこのメーカーのこの機種のこの色のイヤホンが欲しかったわけではなくて、それを選ぶことによって「私はそれを望んだ」ということになるようにできている。普通に考えるのと実際とでは順番が転倒しているのが欲望の運命だ。本当に欲しいもの、本当に探しているもの、それを見つけ出すことはほとんど不可能に近い。そんなものはない、と言い切ってしまってもいい。それを逆手にとって、あるものの中から何となく選んだものを「本当に欲しかったもの」とすることを永遠と繰り返しているだけだ。

目の前にほとんど同じに見える豚が並んだのを見て、インターネットで通販をしている気分になった。選択肢のなかに答えがないと例え直感的に感じていたとしても、このなかに答えがあるはずだ、と無理に選ぼうとする感覚。生きていくということ、何かを選ぶということは常にそういうものだ。子どもに「君は何にでもなれるよ」と言うことほどの嘘はない。事実としてその子には無限の未来が広がっている。だが声をかけた大人の想定する「何にでも」には制限がある。子どもはそれを敏感に感じとり、職業リスト一覧から大人が許してくれそうなものを取り出して、自分自身すらも「将来の夢」だったと思い込む。

『千と千尋の神隠し』において、カオナシは人間を喰いたかったのではなく、寂しさから人の欲望に取り付く。金や食べ物、そういったまやかしの欲望に手を出さず、それは私の望むものでは無いよ、と断れる千だけが自分の望みを知っている。それはいつ獲得したものかは分からない。生まれた時から持っていたのかもしれないし、千尋という名前を忘れかけていたと分かった時かもしれない。銭婆の言うとおり、昔あったことは忘れないのかもしれない。

なぜこんなふうに生きているのか、振り返るとあまりよく分からない。名前を奪われるというのは、自分が何かを失った感覚があるままに、しかし何を失ったのかを思い出せず、欲しいものが見つからず、目の前に置かれたとりあえずの選択肢からひとつマシなものを選ぶような、よくある日々とそう変わらないだろうと思う。私には神様からの苦団子はないけれど、もし豚豚をまえにしたら「このなかには私の欲しいものはないよ」といえるように、バイト後のコンビニには寄らないで家に帰れるようになりたいな。

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