見出し画像

出会って半年経ったみたいにはじめましてって言ってね

働き始めて、どう?という質問には答えかねるけれど、4月は気の重い季節です。

まだ生徒だった春、新しいクラスのメンバー表を見て、他の人は何を思っていたのだろう。私は教室に入るまでずっと胃を痛めていました。私の座る席は、本当にあるんだろうか。お昼を一緒に食べる友人ができるんだろうか。休み時間になるとみんながそわそわと周りを見わたして、何かに気づかれないように「私たち」を作り出す空気に充てられて、薄い酸素を必死で吸っていた。

あの頃、ひとりが嫌だったのではなく、「一人でかわいそうな人」と思われないように、ひとりなのに、誰かに気を使って過ごさなくてはいけないことが息苦しかった。結局1か月も経てば適当に仲良くできていたし、休み時間にひとりでいても何も感じなくなるのに。4月は戦争でした。それはきっと私だけじゃなく、ちゃんとお昼を食べる人を確保できている子も同じだっただろうと思います(じゃあせーのでやめようよとも思いますが)。

大学1年生がコロナ禍で完全オンラインだったのもあり、この視線と笑顔の飛び交う戦争を5年ぶりに経験する羽目になるとは思ってもみなかった。私は高校生の時よりずっと多くの市場で競りにかけられるような存在になっていて、それは私の望まないことだった。「趣味・特技」「好きな食べ物」で構成された自己紹介を「合コンじゃねえんだぞ」と思いながら過ごしていました。大学なら「ご専門は何ですか」で良かったのに。「仲良くなる」という曖昧な目的のためのコミュニケーションはこの世で最も疲れるもののひとつです。

胃痛と引き換えに4月を何度も乗り切ってきた私は、慣れたものでひとりで昼ごはんを食べ、最も早く退勤する人として振る舞っている。ラッキーなことに特別に浮いている存在としても扱われていないから、おしゃべりもする。浮きたいわけでは全然ないのでとってもありがたいなと思っています。


さて、ここまで書いたことはごくありきたりなことで、特に意味はありません。あとはネタバレのようなものです。

「社会人になってどう?」と聞かれたときに言葉に詰まってしまう。
働き始めたとて、私の作る料理のレシピが変わるわけでもなく、相変わらず運動不足だし、トラウマがなくなることもない。生活が続くことへの安心と、これまで引き継いできた苦しみは何も変わらないことへの絶望がくたくたに煮込まれていて、そこに「社会人になってどう?」と聞かれたときに言葉に詰まってしまう。相手を安心させたくて「楽しいです」と答えれば現実から乖離していて、しかし苦しいかというと実際はそうでもない。

平日は通勤中に日記を書いています。私にとって、日記は何の意味もありません。何の意味もないことを、何の意味もないまま書いています。書いたからといって記憶に残るわけでもなく、毎日が特別な日という価値観になるわけでもありません。日記を読んだからといって私のことが分かるとも思えません。

大きな問いに対して、どんな形で答えるのが良いのかなあ、と考えています。作文の最後に「楽しかったです」と書かされたことへの恨みだけは忘れずにいたいな。


日記にご興味がある方はこちらから読めます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?