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名前の由来と、ごめんねの数

書きたいことがたくさんあるような、寝かせてみると書くほどでもないような。スマホのメモ帳に思いついたことを入れたり、数時間後見返して「何だっけこれ?」となったり、心の中でずっと文章っぽいことをぶつぶつ言ったりしているんだけど、いざ書こうと思うとまとまらない。そもそも、まとめてそれっぽい答えを出そうとしちゃうのが、今は違うんだろうな。
テーマが壮大になればなるほど、結局いろいろ無理で「やーめた!」となりそうでもったいないので、私もまずは日記のように、最近あったことから、つらつらと書き始めてみようと思います。

先日の土曜、人生ではじめて、保護者としてクラス懇談会というものに参加した。息子が通うのは「い、いいんですか?」と100回聞き返したことがあるくらい保護者の負担が少ない手厚すぎる保育園。(運良く入れた大好きな園!)
さらにコロナ禍だったので、保護者参加のイベントがこれまではほとんどなく(入園式もなかった。それは少し寂しい気もしたが、当時想像しただけで発狂地獄しか見えない息子にとっては幸いだった)つまり今回は、園としてもコロナ禍以降、私にとっても子が2歳半に入園し、4・5歳クラスにして初めて行われた懇談会だった。
夫はその日も仕事だったので、一緒に来た息子を別の部屋に預け、先に待っていた保護者たちの中に交じる。そわそわした大人たちが、丸く並べられた子どもたちの小さな椅子に照れくさそうに座っていくのが楽しい。
先生からの挨拶のあと、軽いゲームをしてから、自己紹介というか、我が子紹介へ。「子どもの名前と由来、我が子の自慢を発表してください」と先生に言われ、保護者たちがざわつく。「え!由来?なんだっけ?」「自慢?困ったことじゃなくて??!」呑気にワクワクしていた私も、想定外の内容に焦ったが、先生は「みなさんそんなに深く考えず、自慢って言っても、こんなところがいいところかな〜?とかでいいですよ」とほほえむ。兄弟4人とかのお父さんお母さんが本当に「えーっと・・・あの子は・・・」と、こんがらがってる様子を見て、なんか少し落ち着いた。

息子の名前は、ある日の散歩中に、当時恋人だった夫がふと口にした言葉から来ている。
「ん?今の、なんかいい響きだね。子どもが生まれたら、○○って名前もいいねぇ」
今思えば、プロポーズと思えなくもない台詞だったけど、彼はなんというか、そういうことを言っても涼しい顔でにこにこ歩いているような人なので、こちらも、たしか「うん、いいね」と同じようににっこり笑って歩き続ける、そんな感じだった。
休日はいつも、二人でゆっくりと起きて、手をつないで散歩していた。20代の終わり。二人ともまだ夢の途中のような感じで、全然地に足がついていないのに(ついていないからこそ?)のん気で、自由で、幸せだった。互いに型にはめてくる人やものごとが苦手で、好きなものが似ていて、そんな話が延々とできて、歩幅が合うのが良かったんだよな。当時彼の住んでいた小さなワンルームの部屋には、仕事の道具は整然と並べられているのに、テレビや電子レンジはもちろん、冷蔵庫もコンロもなくて、調理家電は小さな炊飯器とティファールの電気ケトルのみ。そこで私が初めて作った料理は、鰹節をたっぷりかけたアボカドご飯で、彼は鰹節の香りがするたびに「猫が大喜びするね」と言った。(実際にベランダでノラ猫が昼寝しているようなマンションだった)
何も持っていなかったから、そこから一緒にいろんなものを選び、増やしていくのが楽しかった。
あんなに何もない部屋に私を迎え入れた彼も、そんな彼と交際、さらに結婚しようと思った私も、人によっては信じがたいことだろうな、でもあらためて振り返ると、やっぱり私が結婚する相手は、(その先がどうなろうと)この人だったな、と思う。

自分の番が来て、簡単に名前の由来を話すと、夫の台詞を言ったあたりで、「わぁ〜すてき」「いいなぁ」と華やいだ声でみんなが盛り上げてくれた。本当は他にもいろんな名前の候補を考えたし、結局その名前にしたのも、夢が叶ったというよりは、若干ネタの回収めいたところもあったりしたので、その声色に恐縮してしまったのだが、とにかく無事に終わって良かった。
我が子の自慢は、普段困っていることの裏返しのようなことを言った。もっと堂々と言ってあげられれば良かったかな?と思ったけど、夜仕事から帰って来た夫に話すと「ちょうどいいところ、言ったんじゃない?」と言ってもらえてほっとした。前に話していた人たちの流れもあったし。ちなみに、前にnoteでも呟いた、「繊細でこだわり強く大変だったけど、最近はハンドソープの詰め替えとか、見えない家事にまで気付いてお礼を言ってくれるところ」らへん。そんなところまで気づいて触れてくるの、やっぱりモラハラ臭感じる?とも思ったけど、“見えない家事(名もなき家事)”と「ママありがとう」的なワードがキャッチーだったのか、こちらも悲鳴ではなく、優しい息づかいや相槌が聞こえてきて、救われた。

子どもの名前の由来も我が子自慢も、他のお子さんの話を聞くのはとても楽しかった。小さくてアットホームな保育園で、大体どの子も顔を知っている、というのもあるからか、どの話もかわいくて、目に浮かぶようで、やっぱり名前には大体いろんな思いが込められていて、いい話を聞けた・・・とじんわり思えて、良かった。

あ、でも一個だけ。ここは後で消すかもしれないけど・・・
我が子自慢で「前はわがままだったけど、下の子ができてからは、妹に髪の毛を引っ張られたりしても目に涙をためながらもぐっとこらえてたりする。見ていてほんとにお兄ちゃんになったな、と思う」と言っていたお母さんがいて、その子のKくんが、この前園の近くの公園で、言い争いになった同じクラスのMちゃんの顔を、指の間のほっぺの肉が浮き出て見えるほどつかんでいたところを見ていた私は、何とも複雑な気持ちになった。
一個だけ、と書いたが、このパターンは他の親子にもあった。親はここができている、と思っていても、子どもには見えていない面がある。

私は昭和のお節介おばさんみたいな、学級委員長みたいなところがあるので、他人の子どもにもとっさに注意してしまう。なので、その時もつかみかかったKくんに「わ〜それはさすがにダメ!!!」と注意し、「Kくんなんてキライ!絶対に許さない!」と泣き叫ぶMちゃんを息子と一緒になだめ、修羅場が落ち着いた数分後には、いじけていたKくんを蟻の観察に誘い、昆虫トークをして笑顔の時間を取り戻した。かけつけて来たKくんとMちゃんの親御さんにも、できるだけ後を引かないように「この年頃はほんと、大変ですよね〜お互い」みたいな声をかけたのだった。(ただこの時いたのはお父さんで、お父さんもまだ小さな妹の方を見ていたから、Mちゃんの顔に指が食い込むリアルなシーンを見ていない。簡単に状況を伝えるにも「けっこう食い込んでましたよ」とは言えなかった。そこだけ第三者として、責めるのではなく事実として伝えた方が良かったかも・・・と少し後悔している)
子どもたちは怪我をするほどにはなっていないし、意外と次の日にはけろっとして、自分を叩いた子ともまたケラケラ遊んでいたりするし、手を出してしまうこと自体はこの年齢では、そこまで大きな問題ではないのかもしれない。
私の仲良くしている友人の子どもにも、“手が出てしまう”タイプの子もいるし、出してしまう側の親のつらさも聞いている。中には発達障害によるパニック状態でそうなってしまう子もいる。手を出したり、出されたり、それ自体は誰にでも起こりうること。
私がいちばん怖いのはやっぱり、子どもの心の奥に気づいて動いてあげられないことなのかな、と思った。
最近、子が成長とともに前ほど細かいことを気にしなくなっているように見えるのをいいことに、私も自分の育児に自信を持ち始めていたのかもしれない、と反省する。心に余裕を持つことやおおらかなことと、目を背けること、驕ってしまうことは違う。
転んだ時、子どもが泣きそうな顔をしていると、多くの大人は手を貸さずに自力で起き上がるのを待ち、なんとか立ち上がると「泣かなかった!!すごい!」と褒める。私も強い子になってもらうにはそれが正解だと思っていたし、その儀式に興じることもある。試練や痛みを乗り越える訓練には最適のシーンだ。
でも、必要以上に我慢してしまう子には「痛かった?」「大丈夫?」とかけ寄る人がいてもいいと思う。私のように、我慢が癖になり、助けを求めるのにも想像以上の勇気がいる人間もいるし、手を差し伸べられて育った子は、同じように周りの人に手を差し伸べられる子になるかもしれない。

子どもが生まれてから、親に感謝するようになったという人は多い。
でも私はそうは思わない。
「子を持って知る親の恩」なんて、呪いの言葉だ、とすら思う。
私は逆に、子どもが生まれる前の方が親を尊敬し、感謝していた。そういう娘でありたかった、というのもあるかもしれない。
子どもと過ごしていると、「あの時、私は本当はこうしてほしかったんだな」「こんな言葉をかけてもらいたかったんだな」ということをよく思う。
これは夫ともよく話していて、彼もまた同じらしい。子育てに関して、私たちはずっと手探りだけど、そうじゃなくなった方が、何かを見逃していそうでこわい。

子が生まれて、母からもらっていちばん嬉しかったのは、「お母さんは子どもの気持ちがわからない親だったよね、ごめんね」という言葉だ。
LINEでのやりとりだったんだけど、私は昔のように「そんなことないよ」とはどうしても言えなくて、「ごめんねって言ってくれてありがとう。私も子どもにちゃんと謝れる親になりたいと思う」と答えた。
さっきその時のLINEを見返そうと思って、両親と自分のグループLINEを振り返り、「ごめん」で検索をかけたけど見つからなかった。
あれは夢だったのか?
そんなことより、その親子グループ内で132個もの「ごめん」がヒットし、そのうちの125個が私からで、そのことに、ぞっとした。

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