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重い映画を観て、どんよりしながら、それでも何かを考えてみる

傷つく、傷つける
さらりと使ってしまうけれど、傷つくとか傷つけるって、どちらも「わたし」の主観でありながら、「相手」を想定して敵対関係を作りだす構造が内包されがちでややこしくなっている。
現象としての被害と加害も、単純ではなく入り組んでいて、善悪きっちり分けた上で、固定化されて不変であり続けるのだろうか。償うとか赦すってどういうことなのだろうか。考えても分からない。答えがないけど考え続ける問いなのかもしれない。

今日は「過去負う者」という映画を観てきた。

大分、重いテーマだ。

まず「罪名は?」から始まる。
浮かんだ言葉が、「すねにきずをもつ」

脛(すね)に疵(きず)持つ
隠している悪事がある。自分の身に後ろ暗いことがある。やましいことがある。

コトバンクより

罪を犯して刑務所に入ることは大きなことだ。自分の日常とは切り離された世界と思ってしまうし思いたい。
どんなにむかつく人がいたとしても、殺したりはしない。一線を超えることはあり得ない。もちろん、そう思っているし、一線を超えることはない。それは単に理性だけでなく、やっぱりできない超えられない大きな壁、谷、非現実の線引きを感じる。
「別の世界」と切り離しておくことで、自分を安心な場所に置くことができるというメリットがある。だって怖いから。
だけど、こちら側とあちら側の分断は、本当に決して踏み越えることがないものなのだろうか。そう考えると、境界は曖昧で、一つ間違えれば、何かの歯車が狂ったとして、自分があちら側に行く可能性がないとは言い切れない。そう考えると、益々怖くなる。怖いから、考えたくないし、「ないこと」にしておきたくなる。

いろんな立場の人がいて、いろんな考え方があって、それが違うことは当然のことだ。違うということを「対立」と捉えるのではなく、「対話」で開いていくことは理想だ。そうだったらいいのに、そうしたい、まずは思うこと。「でもできてない」と出来てない方に目を向けて、無力を感じて落ち込んで、そんなループにはまるくらいなら、思いだけでも持ち続けていたい。

「私がどう思う」を語るとき、自分とは関係ない切り離された安全な場所から発言するのではなく、容易に感情移入できる立場でもそうでなくても、すべて「地続き」にある人として語っていきたい。それは感情を揺さぶられ、苦しいことでもあるけれど、そうでなければ本当の言葉が出てこないように思う。だけど怖くて辛くて、心が痛いから、黙っていたり逃げたり避けようとしてしまうこともたくさんある。

映画の後のトークイベントで舩橋監督が紹介していた地下鉄サリン事件被害者遺族の方の言葉が印象的だったので、パンフレットを買って改めて読んでみた。

ただ、私が一つ違和感を持つのは、死刑制度の世論調査で、死刑存置を支持する中に、遺族が望んでいるから、という意見があることだ。遺族を慮ってだろうが、自分の意見ではなく、他人である遺族の意見を代弁して正当化する身振りは如何かと思う。

「過去負う者」パンフレットより、高橋シズヱさん(地下鉄サリン事件被害者・遺族)のEssay

自信がなくても、まとまらなくても、怖くても、取り留めがなくても、変わることがあっても、それでも「自分の意見」を述べるべきなのだと深く心に刺さった。

ついつい自分とかかわりのない世界に留めておきたくなるような現実も、実際には地続きにあって、きれいごとではすまないけれど、不寛容な世界は結局自分の首を絞めることになる。この閉塞感に耐えられず、誰かを責めたくなるけれど、自分は責められたくない。自分も他人も責めずにすむ解があるとしたら、それが寛容なのかもしれない。

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