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「さいはての家」

今日も本を読んでいる。
どこかに「答え」が書いてあるのではないかと探している。もちろん、「外側」に答えなんかない。だけど、「内側」にある「答え」のようなもの「ヒント」を本の中に見つけることはある。その「言葉」にその「文章」に引き寄せられる「感性」は、自分の中にある。その時、そこに「何か」を感じるってことは、やっぱり大事な何かを教えてくれていると思う。

昨日から、彩瀬まるさんの「さいはての家」を読み始めた。
ここではない場所へ向かった人たちの物語で、それぞれの「さいはて」が描かれた5つの短編がおさめられている。

どこにも行きたくない。
もうどこにも行きたくないし、なんにもやりたくない。

「さいはての家」彩瀬まる


この言葉が自分のこととして目に焼き付いた。
物語自体は、逃亡中のヒットマンという自分とはかけ離れた設定の人物で、行動も「それはないだろう」と自分とは「違う」と感じる人物なのに、それなのに、この「感覚」がこの「言葉」が、「自分のもの」と感じてしまうほどにぴったりしっくり、これだと思った。

駆け落ち、逃亡、雲隠れ、
行き詰ったひとがたどり着いた「さいはて」で、ひと時「住みつく」家。

行き詰っていて、「逃げたい」という願望が、共感を呼び起こすのかもしれない。

この世から逃げたくて仕方がない。

「さいはての家」彩瀬まる

この一文も、今の自分の心を鷲掴みする。ただ、この文には続きがあり、

それと同じくらい、この世に触れたくて仕方がない。

「さいはての家」彩瀬まる

今は、この後半の気持ちに到達できない。
それくらい「やさぐれている」
「やさぐれている」と表現したのは、投げやりな気持ちのつもりだったけれど、調べてみたらこの言葉には、「家出する。宿なしの状態でふらふらする。」という意味もあるらしい。

やはり、今、読むべくして手に取った一冊だったのだ。
そうか、「逃げたい、家出したい」という内なる願望をささやかに叶えたかったのかもしれない。



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