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「他者といる技法」

「社会」というものに、それなりに拘ってきた。というか、何かしらひっかり、つっかかり「社会」ってなんだよと葛藤し続けている。

もちろん「こころ」「内面」の探求に目を向けて、一応の納得とかもあるのだけれど、そこに「社会」の視点ってどう絡んでくるのか、いや逃げられないから厄介なのか。

とにかく漠然とし過ぎている。
それを整理する手がかりになるのではと手に取ったのが「他者といる技法ーコミュニケーションの社会学」だ。

確かに、それだ!と思う視座が得られた。だけど難解でまだ整理しきれていない。

他者といっしょにいて「社会」を作るという面倒なことをすることは、そこから広がるすばらしい可能性と、それをするために生じる苦しみとえお、ほとんど常に同時に内包するのではないか、

「他者といる技法」奥村隆

安易に「すばらしさ」に着地するのではなく、苦しみもセットであり、それも込みで引き受ける。
確かに、面倒くさくてすぐに閉じてしまいたい願望が湧いてくる。だからといって「外側」から、ワーワー言っているのも違うし、結局「社会」の中に居るからこそ「私」を問うという視点のしんどさと納得感。

結局、面倒くさいし、わからないという居心地の悪さを簡単になくそうとするのは違うし、本当の望みではないのだ。
つまり、自分も大概面倒くさいってことだ。

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