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自分にダメだしされながら本を読む

どうせ逃げきれないことならば、さっさと終わらせる、完了させる方がいいに決まってる。そんなことわかってる。重々承知のくせに、やっぱりやってしまうから厄介なのだ。

それは、ほんとうに些細なことだった。
たった一本の電話。それを先送りにしてしまったことで、思っている以上に心なのか頭なのかのリソースをごっそり持っていかれてしまって、本を読むことすらままならない。
改めて、自分のキャパシティの狭さを思い知らされる。

電話を終わらせてみれば、用件は想像していたような悪い話ではなかった。脳内劇場おそるべしだ。

そんなわけで、心置きなく読書が進む。
それでも読める本など限られていて、まだまだ未読本が積み重なっているのに、図書館にリクエストした本が3冊届いている。
それなのに、さらに3冊新しい本を購入し、謎の罪悪感に苛まれている。

罪悪感の一つは、無駄遣いというお金を使うことに対して発動している。
もう一つは、本を読んでるだけで、現実、行動に結びついていないからダメだというもの。
どちらも「消費」に対する罪悪感だ。消費は悪いと思ってる。自分の価値を低く見積もっていて、「お前なんかが」という枕詞がついている。
そんなんじゃ、楽しさ半減だよと半分外から自分で自分にツッコミをいれている。思考のクセっておそろしいけれど、無理になくしたり、ポジティブ変換で裏返しても、結局「見ないふり」に過ぎなかったりするから、こうして、飲みこまれずに「わたし、そう思ってるなぁ」とやり過ごすしかない。

そんなごちゃごちゃした頭で読んだ本「ふつうの相談」

話を聞くこと、相談援助、カウンセリング、面接、「専門性」はあるけれど、専門家だけが行うものでもなく、必ずしも「枠組み」に当てはめることが正解ではない。

私自身は、福祉の大学を卒業し、福祉の現場で働いてきた。
社会福祉学、制度政策というよりは、心理系、特に障害児の発達臨床を積極的に学んでいた。
学んだことがダイレクトに現場で生かせるのかというと、実務はあくまで実務として、目の前の事象をこなすことが仕事だった。
長らく、「理論と実践をつなぐ」はテーマで、研修なども積極的に参加していた。今思えば、意欲的な若者だった。
そんなことを思い出したのは、「専門知」「学派知」「現場知」「世間知」「臨床知」といった言葉が、自身の経験とつながり腑に落ちたからだ。

「メンタルヘルスの地球儀」が示され、仮にではあるが、南極に「ソーシャルワーク」北極に「精神分析」が置かれ、中心には「ふつうの相談0」がある。自分のフィールドを意識し、軸足の置き方もあるけれど、地球の歩き方的なもっとフレキシブル、ボーダレスな在り方をイメージした。
自分の実践が、いつまでたっても自信のないままで、それでも経験を積み重ねている自信もあって、そんなところが少し整理された気がする。

「こころの支援と社会モデル」もこれから読むつもりなので、自身の「臨床」「方向性」みたいなことも考えて言語化できるといいなと思っている。

それにしても、「やってない」「できない」はしつこいまでに消えない。
また本なんて読むだけで、もっと実践して、動かないとダメなんだよと思っている。
本を読んで、自分の経験と重なって響くことこそ実績として「やってきたこと」の証であるはずなのに、「やってない」「できない」の声が消えることはない。

こうやって「休みモード」から「仕事モード」に切り替えようとすると不安やストレスが襲ってくる。だから仕事なんてしたくないんだと思ってしまう。「仕事」を狭く捉えすぎているのだ。
だって偏執的に興味を持っている分野は「ほんとうの声を聞くこと」だってことに気づいている。
それは、「できるできない」「好き嫌い」「やりたいやりたくない」ではなく、やっぱり「興味があること」なのだ。

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