見出し画像

安心して「いる」

「いる」ことに拘って、打ちのめされて、焦がれて、とにかく「いる」ってことは人生のテーマだ。
そこには「生きづらさ」も絡んでいて、割とナチュラルにデフォルトで「わたしなんていない方がいい」「わたしはいらない」と思っていた。
この考えを「存在否定ビリーフ」と呼ぶ。

では、ビリーフリセットでわたしの「存在否定ビリーフ」はなくなったのかというと、決してなくなりはしない。考え方の「クセ」でもあり、今でもひょっこり顔を出す。
では、何が変わったのか?
まず、「当たり前」に存在否定ビリーフと一体化していた頃は、どこにいても「ここではない」と思っていて、どこにいても居心地が悪かった。でもそれが「居心地が悪い」ってことにすら気付かないくらい「当たり前」だった。
それはしんどい状態だったし、心細くて、この世界で生きていけないという絶望と諦めに満ちていた。

こうやって書いてみると、どれほど苦しい世界で生きていたのかとかわいそうになる。だけど、「それしか」知らない時には、それが「しんどい」ことにすら気づけないのだ。
今、あの頃はそうだったなと振り返ることができるのは、不安じゃない、つまり「安心」という感覚を知ることができたからなのだ。
それは劇的で、そしてささやかで、それでも「確かな」体感だった。ずーっと「安心」だけにいられるようになったわけじゃないけれど、「安心」の感覚を体験したから、自分が「不安」を感じていたのだということが理解できたのだ。自分の生きづらさ、しんどさが、「不安」だったのだなと名付けることができたのだ。

「今ちゃんとここにいるな」と確かめ確かめ、気付くと「安心」にいられる感覚を育てていった。
「不安」を感じる時も、「私」が「不安」を「感じている」と感じられるようになった。
そんなわたしだからこそ、「いていいんだよ」と存在を全肯定できる人になれると思った。もちろん、その考えは今もある。

だけど、さらに進化して、自分がそこにいていいと思えること、そういう存在として「いる」ことこそが全肯定なのだと思えるようになった。
力んで何かをする必要もないし、いいこと言う必要もない。言いたくなったら言えばいいし、してみたいことならすればいい。何をしてもしなくても、安心して「いられる」ことが最強。

だけど、「安心」を知らない時に「不安」が分からなかったように、「安心」だけあればいいってものでもないのだろう。時には不安も感じて、不安もあるけど安心もあるってことをどちらもあっていいと「ある」ことを肯定する。それだけのことなんだなと、体感して腑に落ちた。あったかい、うれしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?