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どうしたらいいんだろう

信頼される大人って何だろう?

今日は、犯罪を繰り返してしまった少年院の少年たちのドキュメンタリー映画「記憶2」の上映会だった。

とても重いテーマで、答えなんて見つからないけれど、ただ「悪い子」「犯罪者」としてではなく、ひとりの人として生きてきた背景を知ることで、単純に目の前の「罪」だけを裁いて終わることはできない。どうすれば良かったのか、どうすれば良いのかは、「反省」と称して本人に考えさせてすむものではなく、「大人」が「社会」が、自分事として責任を持たなければいけないことなのだ。

それにしても、胸が痛い。苦しい。それこそ泣きたくなるのだけれど、やっぱり大人だから泣いていてはいけないとも思う。何もできない「無力」を感じて途方に暮れてしまうのだけれど、たとえ「無力」でも「微力」でも、この社会を創る責任がある。
無力であると諦める前に、それでも「願う」ことはできるはずだ。
それすら放棄して、無力でいようとすること、いつまでも「こども」ポジションでいようとすることはできない。

そう、年をとっても、いつまでも「こども」ポジションでい続けてきた。
まあ、そもそも「こども」は「無力」ではないのだけれど、大人として生きる覚悟が足りていなかった。

ここ数日「覚悟」というキーワードがちょいちょい刺さってくる。
結局「決める」だけなのだ。何を信じるのか、何を選ぶのか、どんな世界に生きたいのか。
「大したこと」ができるかできないか、拘る所はそこじゃない。大したことじゃなくても、その時、その瞬間に共にいることで救われる気持ちがある。いつでも素晴らしいことを言えるわけではないけれど、それでも思いを伝えることはできる。受け取ってもらえることも、受け取ってもらえないこともある。
あなたの声が聴きたい。そう願うのは「わたし」のエゴだ。信頼してほしいと思うのもエゴだ。何かを差し出さなければ、どんな犠牲を払っても守らなければいけないと思うのもエゴだ。そこまでしなければ信頼されないと言うのは言い訳だ。

いつもクヨクヨしているけれど、それでも「生きていていい」と思える瞬間に出会い続ける。だれかの言葉、存在、「大したこと」だけに救われているわけじゃない。
書きたいことがわからなくなってきたので終了。

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