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システム•クラッシャー

今日は盛りだくさんな一日だった。
盛りだくさんの真ん中で、映画を観た。濃い映画だった。

最近、邦画ばかり観てるなーと思ってたところに気になる映画の情報が飛び込んできた。
「システム•クラッシャー」
ドイツの映画だ。

まず思い出したのは、トリイ•ヘイデンさんの「シーラという子」という本だ。

キレて大暴れするこども。手がつけられず、受け入れてくれる施設が見つからない。被虐待経験。

「大変な子」

子ども目線で見ると、痛々しくて、どうして受け入れてくれないのーとヒリヒリする。
だけど、尋常じゃないエネルギーでぶつかってこられ、他者に危害を加える子に周りが疲弊するのも分かる。決して「良い対応」でなくても、とにかく今、目の前の暴れている子をなんとかしなければならない現実は、理想論や綺麗事ではどうにもならない。

かと言って、愛や情熱を持ち出して、「なんとかできるはず」と関わって、勝手に疲弊してしまう。支援者が、自分を保ち続けることは難しい。もちろん線引きが必要であり、その線引きこそが愛着を築けない要因にもなりうる。
「母」を責めることも容易だけれど、そこにも解決は見出せない。

ベニー(主人公)の行動は、自身の望み「ママと一緒にいたい」を遠ざけるものでしかない。
なんとか「システム」の枠に収めようとしても、ことごとく収まらないエネルギーの塊だ。

「支援に乗らない」と安易に言ってしまう「処遇困難ケース」
確かに大変だ。
一方で、従順でシステムに収まる、「支援がうまくいく」ことは、果たして良いことなのだろうか。
「良い」と決めるのは誰なのか、その物差しは何なのか、考えてもわからない。仕方ないとか、妥協で生きていく。システムの中で生きる、社会性とは世知辛い。
きっとまともに受け止めていたら生きられないから、そーっと目を逸らしてやり過ごしているのだけれど、全力でぶち壊してくるエネルギーに触れると、怖さと共に溢れる魅力に惹きつけられる。

切ない。ヒリヒリする。泣ける。
観終わった後街を歩き、ウオーっと叫びたくなる。叫ばないけどね。うっぜ〜、なんだよなんなんだよーという自分の中にある、抑圧している思いが溢れ出す。しんどい。

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