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開くことの可能性

気になりながらも、なかなか開く気になれなかった本「母という呪縛 娘と言う牢獄」を読み終えた。
読み始めてしまえばあっという間だった。
気が重かったのは、これがノンフィクションだとういうことだ。

教育虐待
医学部を目指して9浪させられる。「させられる」がどこまで当てはまるか難しいけれど、母の意向が強く逃げられない(と思う)ことも確かだ。
逃げられない。実際には何度も家出をしたり、逃げようとしている。
受験や学歴に拘る所は、教育虐待なのだけど、それだけではない支配は、カテゴリーとして心理的虐待、身体的虐待など多岐にわたっている。

確かに「異常」だと感じる。
だけど、これが「家庭内」で起こっている出来事で、親の期待や愛情の名のもとに、程度の差こそあれ、どこの家庭にも起こりうる、いや起こっていることなのかもしれない。

「異常」とはいえ、殺されてしまった母目線で何が起こっていたのだろうか。今となっては分からないままなのかもしれないが、もう少し知りたい。
ふがいない夫を追い出し、娘に期待をかけ、全てを背負わせて、自身の母に経済的な援助を求める。
全く社交性がなかったわけでもなさそうなので、娘以外の目から見た人物像が気になる。

娘は服役中であるが、まだ未来がある。
母と言う「重し」がなくなった先にある人生をどう選び取っていくのだろうか。今度は「罪」という「重し」を背負い続けることになる。それでも「自分」の人生を続けるしかないのだろう。

事件が起きる前に「何か」できなかったのか。
誰かを責めるわけではないけれど、やっぱり、もう少し手前で何とかならなかったのかと思ってしまうほど苦しい。

ただ、思うことは、「開いていく」ことに糸口があるのではないかということだ。
あまりにも「閉じて」いて、家庭内だけで「完結」して麻痺していく。
「そんなのありえない」とか、「やりすぎよ」なんて言われて素直に受け入れられるはずはない。それでも、そんな風に違う価値観に触れること、開かれていることは、どこかで救いになるように思う。
不用意に「批判」だけを繰り返せば、ますます「閉じて」守ろうとする危険も考えられる。そうなのだけど、どこか開いていること、お互いに「開けておくこと」その余地を残しておくことができるといいなと思う。

そんなことを思う自分が、一番閉じていて、隙あらばバシンと扉を閉じようとする人間であることも自覚している。
だからこそ、「開く」ことに対する可能性やチャンスを人一倍感じている。
そんな風に、世界をノックして回ること、扉のすき間から外の世界を覗いてみることを恐る恐るでも繰り返している。

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