見出し画像

課題設定

「わからない」がデフォルトで、時々、何にもわからないの渦に飲み込まれる。割とよく飲みこまれている。
何か論理的なものに対する反発のようであり、ただ単にわからないだけであり、自分を無力化する罠であったり、まあなんだかんだ意味づけはあるものの、とにかくそういう状態なのだ。

「わからない」の最たるものが、「何が問題なのかわからない」である。
わーっと情報がたくさんあって、ピンポイントにここが問題ですって単純明快にできない。そもそもの「枠組み」とか、合わせるべき「基準」「社会」の方が「正しい」っていう前提が信じられない。その前提を疑う姿勢は良い面でもあり悪い面でもあり、なかなか悩ましい。

とりあえず「課題」というターゲットを定めて、その「解決」に向けた道筋や行動指針を組み立てるってことが「わかりやすい」のだろう。そして一応、それをやろうという意思はあるのだけれど、無意識の抵抗がある。そしてその抵抗を「できない」「わからない」に紐づけて無力化するのがお馴染みの構図だ。

「何が問題なのかわからない」問題は、そもそもの「前提」「正しさ」がわからないってことなのだ。現代的な問いだ。
それでも「課題設定」するとしたら、それは「自分にとって」ということが外せない絶対条件になる。
「他人」の課題を勝手に設定できないし、「解決」なんてできない。
つまり、そもそも間違っているっていう「前提」があってのアラートとしての「わからない」なのかもしれない。
だから、甘んじて「わからない」を受け入れ、その居心地の悪さと共にいるしかない。
そして誰かのためではなく、自分のために行動することしかできない。
うーん、わかったようなわからないような感じだけれど、自分の中では少し整理されているので、これでよしとしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?