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自分の熱量に気づいてビックリしている

今日もぼちぼち本を読んでいる。
勢いでバーッと読んだり、ちょびちょび時間をかけて読んだり、途中で止まってたのを思い出して読み終えたり、あれこれ雑多にランダムに頭の中に情報を放り込んでいる。

今日読み終わった一冊が、「まず、ちゃんと聴く。」

「聴く」系の本は、今年も結構読んでいる。
そして、「聴く」ことを仕事にもしているので、結構やってきた。
それでも、まだまだ「できてない」と思ったり、いやいや結構「できますよ」と思ってみたり彷徨っている。
そんなわたしは、「まず」とか「ちゃんと」が気になり過ぎてこの本を手に取った。
この本は、結構時間をかけて読んだ。途中で止まってしまったので、結果時間がかかった。「なるほど」と思うとともに、自分の実践を言語化されて裏付けされたような心強さもある。
そうそう!だけど、出来てない時もあるけど、でもやっぱりこういうことだよね。そんな感じだ。

ちゃんと聴く
相手の背景には、肯定的意図があると信じている状態で聴く

まず、ちゃんと聴く。

この「肯定的意図」が、この本の肝となるキーワードだ。

話の聴き方として、「横に立って同じものを見ながら問う」ということも書かれている。
想像力、イメージする力、「知りたい」という肯定的関心、そんな風に一緒にその景色をみる聴き方が出来ている時は楽しい。
「相手」に関心を持つのではなく、「相手の関心事」に自分も関心を持つということも、ブンブン首を振ってしまう。そういう感じ、ある。

「聴く」ということに対して、「できる」「できてない」がせめぎ合っている。もちろん、「場面」によって、必ずいつもいつでも「傾聴」が必要なわけでもないけれど、結構軽く「傾聴」って言って済ませている。本当に聴けてたかなと思う場面も多々あるし、結構「聴いた」と満足してしまうこともある。
あえて「聴かない」を選択することもある。
とにかく、できてもできなくても、「聴くこと」に並々ならぬ意識と情熱を傾けて生きてきていると思う。一方で、息を吸って吐くように「やっている」部分もある。そんなに意識してないし、頑張ってもいない。それが、この本でいう所のステージ4(考えなくても出来る)の領域とも言えるけど、そうじゃないこともある。

自分の価値観に触れて、およそ「withoutジャッジメント」からはほど遠くなってしまうこともある。そこを無理やり押し込めて、あとで内省するのだけれど、やっぱり滲み出るものもあるわけだから、「うまくできなかったな」という思いが残る。

と、ここまで感想を書いていて思ったことがある。
「聴く」に対する並々ならぬ情熱がある。そう、逃れられない何かがある。
「聴く」ことが素晴らしいから広めたいとか、そんな話ではなくって、それは「執着」に近い「偏執的」、「とりつかれている」とも表現できるような情熱だ。

いやいやべつに~とか、ちょっと読んでみましたとか、そんなつもりでさらっと書き始めたのだけれど、オエッてなるほどの熱量があることに気づいてしまった。
すごくこだわっている。
技術じゃなくて「あり方」なんだよ!と、はいはい、こうやればいいんでしょ的なことじゃないんだと、そんな自分の思いに合致する内容だったので良かった。

しかし、この無駄に熱いマグマのような情熱を持て余している。


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