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いるだけでいい

「傷を愛せるか」を読んで、しみじみしている。

エッセイは、「感性」で合う合わないがあると思っている。今回、タイトルに惹かれて読み始め、一番初めのエッセイからグッと心をつかまれた。「その感じ」が自分の中にある感じと融合して消化された感覚があった。
割と真剣に読了したのだけれど、実は4~5年前にも一度読んでいた。
その時は、「トラウマ」キーワードで宮地さんの本を3冊まとめて読んでいた。忘れていたせいもあるけれど、改めて、今読めて良かったなと思っている。

まず、一番初めのエッセイ「なにもできなくても」
これは常に感じてしまう「無力感」にがんじがらめになって思考停止している心にスーッと入ってきた。

なにもできなくても、見ていなければならない。目を凝らして、一部始終を見届けなければならない。

「傷を愛せるか」

「こども」目線で、感じる「無力」ただ息をつめて見ているしかない「無力」
「大人」になって、もっと何かができるはずなのに結局何もできないと「無力」を感じる上に、「罪悪感」が上乗せされる。
まさにこれを繰り返している。いやいやだって、わたしは「本当に」何もできないのだという信念を強化していく。

「なにもできなくても、見ていなければいけない」という命題が、「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」というメッセージに変わった。

「傷を愛せるか」

そう、ただ、「いるだけでいい」
まさに人生のテーマだ。ここに辿り着いたようで、また離れて彷徨って、結局ここに戻ってきては信じ切れずに目を逸らそうとする。いくら目を逸らそうとしても、やっぱりわたしは「見る人」なのだ。それはとても腑に落ちるし、そうなんだとしか思えない。

本のタイトルになっている「傷を愛せるか」は最後にのっているエッセイのタイトルでもある。
傷は、手当てされるもの、治るものという考え方がある。それを全面的に否定するつもりはないけれど、どこか置いて行かれている何かモヤモヤした思いをずっと抱えていた。天邪鬼な私を許せないでいた。そのモヤモヤがこのエッセイを読んで少し整理されたので残しておきたいので書いてみる。

わたしは、「回復」「癒し」というものに抵抗を感じている。それは、自分のソーシャルワーカー、カウンセラーとしての無力感からきている抵抗なのかとも感じていた。もちろん、それもあるけれど、もっと幼少期からの体験や自分の資質と深く結びついているものだと思い当たった。

自分の強みを分析する「ストレングスファインダー」の中に「回復志向」という資質がある。何度か受けた中で、毎回「回復志向」は下位に位置している資質だ。そのことは、とても納得している。
ゼロヒャク思考の負の側面でもあるけれど、一つダメなら全部ダメと打ちひしがれてしまう。もうそこから先には進めない。この世の終わり、The end、詰んだとシャッターが下りる。
新しい筆箱の表面に小さな傷がついたとか、コップに水を注いていてこぼしたとか、そういうレベルで打ちひしがれていた。心にバツがつくのだ。
「完璧」「無傷」などという状態は、空想上の産物でしかない。だから「現実」は不完全で危険で、「良くない」ところなのだ。自分に対する「ダメ」「良くない」も、「完璧ではない」という文脈から始まっている。

それでも、「少しでも良き方へ」という志向が全くないわけではない。でも大いなる「諦め」と「拗ね」によってフリーズしてきた。
そもそも、「回復」って「今」この状態を否定することなのではないかと思うと、それが「良きこと」とも思えなかったのだ。誰が、どの文脈で、社会的背景があって、「正しい場所へ」「元の位置に」戻すって一体どういうことなのだろうと訳が分からなくなる。

つまり、「傷がない」ことにしようとすることへの抵抗だったのだ。
「傷がある」と認められること、傷と共に生きること、これが求める方向だったのだ。
結局「ない」から「ある」への転換が大きくて、ここに私の人生のテーマが集約されている。
傷をないものにすることが目的ではなくても、傷は手当てされるものでもある。治せなくても手当てする、それは「見ること」でもある。

そして最初のエッセイに戻って、「なにもできなくても、いるだけでいい」に辿り着く。やっぱりここかの備忘録。


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