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年をとること

集中力がない。中途半端に読み進めて放置している本が積み重なっている。
「つまらない」と放置した本もあるけれど、読みたい気持ちはあるけれど、他に目移りしてしまって放置状態の本も多い。
集中力のなさは、スマホのせいか、老化のせいか、現実逃避や他にも要因はあるのだろうか。そんなことを考えながら、「年をとること」について考えている。

老い、年を重ねること、うまく年をとるって難しいと感じている。
おそらく毎年、いや毎時、毎分、毎秒、刻一刻と時間が流れ、年をとっていく。
子どもであれば、それは「成長」として、できることが増えるとか、目に見える目覚ましい速度で変化していく。
大人になるにつれ、「成長」のスピードが減速したように見え、同じ「一年」でもそれほど変わらないかのように無自覚に過ぎ去っていく。それでも、ある程度まとまった単位で振り返ると、自分でもびっくりするほど遠くまで流れていたことに気づいて愕然とする。長い「時間」に比し、成長していない自分に愕然とするのだ。成長よりも成熟は難しいのかもしれない。
分かりやすいのは「身体」の衰えだ。若い頃、「年をとると、耳は遠くなるし、目は薄くなる」とぼやいていたおばあちゃんの表現の仕方を「かわいい」などと思っていたものだけど、そうそう他人事ではいられなくなってきた。

子どもの頃や若い頃に出会った「おばあちゃん」は、最初からおばあちゃんであったかのように思っていたけれど、当然そんなわけはないのだ。
自分の老化の少し前に受け入れがたいのは、親の老化かもしれない。自分を育てた「力強い存在」と感じていた親が年老いていくことが「怖い」と感じることがある。世代交代、時代が変わることが、それと気づかないうちに進行している。
気持ちが「若い」というのも考えもので、「若い」が「幼い」と同化してしまうこともある。特に親子関係では、「親」にとっての「子」であるという意識があって、いつまでも「子ども」に留まり続けてしまう。

年相応とか、何がふさわしいのかなんて、そんなことはわからないけれど、うっかり年だけ取っていることが恐ろしくなった。意識のアップデートが疎かだった。
それでも、良くも悪くも「経験」は溜まっていて、それをどう捉えるかは自分次第なのだ。

最近読んだ「あなたはここにいなくとも」は、それぞれにおばあちゃんが登場している短編集だ。

その人生や経験が道しるべとなり、若い人たちの迷いに一すじの光を照らす。
最初の「おつやのよる」に出てくるばあちゃんは、中々の策士だ。何でもお見通し感があって、ずるいなぁとも感じたけれど、ちょっと目指したい路線かもしれない。
最後の「先を生くひと」は、一番好きなお話だ。とってもかわいいおばあさんなのだけれど、「死神ばあさん」と噂されるに至った背景があり、どこから見るかで事象は変わると思い知らされる。高校生の主人公の素直な気持ちの動きも相まって切なさ全開だった。

どんなおばあさんになりたいのか、そんな命題を掲げつつ、自分の生き様でしか表せないし繕いきれないものなのだなとピリッと身が引き締まる。
初回限定特典で、カバー裏に著者の町田そのこさんの書下ろしエッセーが収録されている。
「挫けたひとへの寄り添いかた」「哀しみに沈むひとへの心遣いのありよう」そんなひとつひとつに自分の「在り方」「来し方」が潜んでいて、それは大それたことではなく、些細な小さなひとつひとつで、小手先のテクニックではなく「こころ」のありようなのだと思う。
種まきばあさんになれますように。次の世代に渡していかれますように。これからも精進していこう。

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