ゼンとクリスと362と千波夜(ちはや)

※WEB漫画「夜宴」15話16話18話をご存知の方向けです。

2012/7/14 初稿

2017/5/15 加筆修正

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ゼンとクリスと362と千波夜(ちはや)


 6月25日。水曜日。夜。好きだと言われる。

 いや、言われたのではなく、指で示された。彼女は手話を使った。一か月前は「ごめん」の手話も知らなかったのに、行きつけの古本屋に手話の教本がそろっているらしく、短期間で見事なほどに手話の「語彙」を増やしていた。

 その、手話の語彙においてはかなり早い段階で覚えるレベルの「好意」の表明を、彼女は俺に対して行った。見間違いかと思った。現実問題、「好き」を示す指は、動きを逆行させると「嫌い」になる。油断していると見落とす。手話は簡潔なものである。なので俺は、もともと彼女の表情と指を、いやというほど凝視する癖があった。


 同月10日くらい。たぶん週末。25日から数えて、二週間は前。その日、凝視しすぎて怒られる。

 怒られる覚えはない、と思った。思ったが、彼女は頬の上部から耳にかけて白熱球の直下で明確に赤くなっていたので、俺はちゃんと引き下がって、目をそらした。それで時々、見た。凝視でなく断片的に見ても、彼女は赤々としていた。照れているのだとすぐに分かった。数秒後くらいに、俺に対して照れているのだと気付いた。

 彼女は少女だった。年は、中学二年生だと聞いていたから14歳だ。圧倒的若さだ。俺の年はあえて言うまい、が、じきに30になる。

 幼い頃は国内の実験施設にいた。黒札組と呼ばれるクラスで、三分の一は女子だったが、女子どころか男子ともろくに交流はしなかった。唯一数年交流があったのは、白札組のクリストフという少年だった。

 彼には何人か顔見知りの友人がいるようだった。しかし、いつも別の人間とつるんでいた。同じ人間と長いこと一緒に過ごすたちではないのかと思っていたら、単に周囲から深い親交を望まれていないらしかった。彼はスクールの同級生3名を殺害した咎で少年院に入所し、まもなく当の実験施設に移送されている。白札組にはそういう人間が多いと聞くが、その中でも彼がとにかく浮いていたのは根本的な嗜好によるらしいところがあった。例えばひとたび殺人衝動にかられると手がつけられず、挙句の果てには遺体を相手に強姦をはたらくなどの、常人が聞けば震え上がるような特性のことである。

 このクリストフがいる白札組は、健康体を持つ人間の集まりだ。しかし噂によれば、そのほとんどが三度以上の再犯者であると言われていた。クリストフ、通称クリスは、珍しくも初犯での入所だったが、その理由はよく知らないのが正直なところだった。猟奇殺人は、ままある事件だ。少年犯罪も昔からあった話だが、更生施設に手放され実験施設に入れられる経緯は、実際なんともいえない。どうしても、施設を管轄する組織内に黒幕の存在を疑うが確たる証拠がなければ誰を責めることもできない。ただしいずれにしても俺はクリスが実験施設に入所したことを今では喜ばしく思うし、彼もきっと、悪くは思っていなかったはずだ。クリスはよく「俺に人間の体は似合わない」と言っていた。彼は体内に潜む化け物(「心の闇」と関係者はよく括る)こそが、自分の本質だと豪語していた。

 話がそれたが、白札組に対して「黒札組」というのは俺のいた分類で、生まれる前から遺伝子に操作を加えられた「遺伝子改変組」を指す。白札の方は、健康体に臓器移植や薬物投与を行うから「移植組」などと呼ばれ、ただいずれにせよ施設内での成長観察が研究目的となるのは黒札組とそう変わりない。

 俺は、その黒札として、21歳まで施設に入っていた。脱走しなければおそらく今も入ったままだった。生き永らえる限り、被験者の成長はつぶさに記録される決まりになっている。俺は実に21まで施設でクリスと親友関係にあって過ごしていた。脱走事件の発端は研究員・柳佐和子によるもので、恐らく事前に何らかの事情でその脱走計画を知っていたとしても、俺は特に「逃げる」ことに興味を示さなかっただろう。しかし俺は便乗し脱走する運びとなった。少し前に、クリスが死んだからであった。

 クリスは白札として入所した後、数年の間は臓器移植実験体となることを免れていた。あとから柳女史に聞けば、当初は情緒不安定で自傷行為を繰り返していた俺にクリスという親友ができたことにより、俺の精神が安定したため、ほとんどクリスは俺の安定のために俺のそばに置かれていたのだという。そういえばあれは俺が望んだのだったが、10代後半になる頃は、俺の希望でクリスは個室を与えられた。クリスはなんだかんだで、共同部屋に馴染んでいないところがあったからだ。そして俺もほどなく個室をもらっていた。なにしろ俺とクリス以外の黒札、白札は、同期みな実験体となって術後まもなく死亡するか、その後の経過観察中に衰弱し死亡していたので、顔を知っている者は毎年減り、共同部屋はいかにも息苦しかった。

 クリスが死んだのは、実験体としてお呼びがかかったからである。

 クリスは脳と内臓の多くを被験体の鵺(通し番号362)に移植され、事実上死んだ。

 移植物が脳と心臓を含んでいたのでもしやと思ったが、移植後の鵺はクリスとは別人格に仕上がっていた。ただし、クリスの記憶はおぼろげながらに引き継いでいるらしく、番号362の鵺はクリスであった頃に蓄積した記憶をもとに、鵺にしては稀有な例らしいが「視覚的刺激のある夢」まで見るそうだ。そもそも鵺には機能する眼球がないから、周囲の気配は感じても視覚的に対象をとらえることがない。鵺が人間の言語野を得ても、光のある世界を語れる者はいない。

「ザイゼンなら、知ってるな」

試験室で足に枷をつけられながら、362は言った。ザイゼンとは俺のことだ。そして362は、自分に臓器を提供したクリスの顔も知っていると言った。クリスの抱いていた感情さえも、わずかながらに記憶の片隅に残っていると言った。柳女史に懇願し、ようやく得た面会の場で俺はそれを聞くことになった。

「クリスって奴は、お前といると安心した」

 362がそう言ったのを聞いて、激しく感情が揺れたのを覚えている。立っていられなかった。そのことは研究員たちに心配され、しつこく分析目的の質問を投げかけられたが、あれはただ、強烈に嬉しかったからというだけだ。俺はずっと、クリスには厄介がられていると思っていた。クリスが言葉や態度で俺を必要とするそぶりを見せることは、生前一度もなかったように思う。

「ザイゼン、お前、四期生に熱湯かけられたろ。あれのせいだ」

 362が、まるで見ていたことのように言った。クリスが実験四期生を連続殺害した事件のきっかけだった。面白半分に熱湯をかけたのは二人、それを傍観していたただの野次馬が四人。もれなくクリスに残虐な方法で殺害、凌辱された。

 そのクリスを真の意味で殺したのは俺だと思っている。

 事件の翌日に俺は、「なんでそこまでしたんだ」と手話でクリスに怒ってしまった。あの時のクリスの目は、確かに一度、失望したように揺れた。俺のせいなのだ。俺がクリスの心を救わなければならなかったのに、あの一言で馬鹿なことにも突き放してしまった。俺はクリスを理解していなかった。クリスも俺を理解していない。理解など他人同士の関係の前には儚い主観的行動だ。それは互いに出会う前、各自が孤独であった頃にはちゃんと分かっていたはずの事実だった。それが、相手を好きであっただけで、親友だと思っていただけで頭の中に霧がかかり、盲目となり、厳しい現実を誤解する。

 クリスが死んで目が覚めた思いになってから、俺はたびたび362への面会を申し出た。そこには厳しい現実が横たわり(いや、362は下膨れの体で、大体試験室の壁際に「座って」いた)、足を運べば運ぶほどクリスの死を実感した。同時に、クリスがそこにいるように感じられる瞬間もなくはなかったので、それを期待して足を運んでいたのか。わからない。ただ、会いに行けばいくほど、362との会話は362との会話として成立し、俺も362という生き物の存在を少しずつ受け入れざるを得なかった。俺は不思議と362の前で精神を安定させるようになっていった。ただ、どこか絶望的な静寂の中にいるような安定ではあった。

 362は頭がよかった。

 もともとなのか、クリスの脳を引き継いだからなのかは不明だが、俺が362に会うことで情緒を鎮めていることに彼はうすうす感づいていたようだ。

 ある日362が言った言葉を、俺は忘れることがない。

「ザイゼン、その本取って」

 俺は驚いた。その口調、声の温度、――声質だけは違って聞こえたが、クリスが以前俺にそう言ったことがあった。クリスの部屋にいた。クリスは寝台に寝転び、昼寝をしたり、目を覚まして窓の外の鳥がはばたくのを見ていた。俺はベッドの端に座っていた。ずっと起きていて、窓から差し込んでくる日光と風を感じながら、穏やかに沈黙していた。

「ザイゼン、その本取って。 ――そこ、一番上の図鑑」

 クリスは眠そうに、油断しきった声で要求した。植物図鑑が、サイドテーブルに置かれていた。俺はそれを取ってやった。そして寝転び、一緒に図鑑を眺めたのだ。

 362が笑っている。

 取ってやる本など存在しない試験室で、笑っている。

 俺は急激にむせび泣いた。

 やがて監視員が慌てて面会を止めようとした時、俺は初めて自分の意思で、他人を殴った。

 362の、頭とも首ともつかない羽に覆われた箇所を、力の限り殴り飛ばした。362はあっけなく倒れた。俺は当時20歳だった。自分で思っていたより力がついていて、362は頬の骨を折る怪我を負った。

 あの日を境に、俺は暴力に訴えることが増えた。

 施設内でも、脱走後も、必要と思えばすぐに殴り、時によっては口も封じた。正体を知られたら口を封じろと言ったのは柳女史だったが、脱走者の中で一番最初にそれを果たしたのは俺だった。一緒に脱走した人数はそこそこいたが、みな人を殺すのは嫌がった。俺も深層心理では嫌なはずだったが、よくわからない。現に人を殺してしまうのだ。心理など取るに足らない。実際に行動している以上は、本心も理由づけも、何の意味もなさない。

 俺は髪を伸ばした。伸ばすと表情が隠れるのがよかった。マスクをしていなくても、耳まで裂けた口が見えづらくなるのもいい。伸ばした髪を、同じく脱走していた女に褒められた。エマと言った。エマはよく俺について回った。変わった子だと思った。

 エマが最初の女性になった。この裂けた口では到底かなわないと思われていたキスを初めて許されたのが、大きな意味を持っていた。持ちかけたのはエマの方だった。好きだと言われた。俺はあまり実感が湧かなかったが、好かれることには安心感があった。クリスと一緒にいた時の方が安心したが、エマから得る安心も、やや近いものがあった。俺はエマに対し、「好きかどうかはよくわからない」と明言していた。エマは「今はそれでいい」と言った。今はそれでいいとし、次はどうすればいいのかと思いながら、じかに体に触れられると思考が鈍った。

 いまだによくわからない。

 今はそれでいいと言われてから、時間は確実に経過し、明らかに「今」から「次」に移行していなければならない時期にあると、直感的に思う。しかしよくわからない。これはつまり、俺がエマを特に好きであるわけではない、ということだと思うのだが、近頃は体を交える回数も激減したので、エマにも誰か他に「安心できる」人ができたのだろうと、勝手に解釈した。これは願望かもしれない。そして、時々挨拶や視線を交わすたびにかすかに与えられる好意に、俺も多少の、拘束力のさして高くない、ほどよい安心感を享受していたいという甘えがあったと思う。

 好意とは、何だろうか。

 俺はクリスが好きだったし、エマも嫌いではなかった。好き、と嫌いではない、は大ざっぱに言えば両方「好き」を意味する。好意をどの視点から語っているかというだけで、内容は基本的に同じだ。同じか? 俺はクリスとは寝なかった。俺が異性愛者だったからだ。エマと寝たのは、エマが異性であったからだ。好きだったからではない。寝ることは好意とは直接関係がない。寝ることは薬物依存に少し似ている。 ――これは柳女史の意見だが、理解はできる。寝ることは依存のうちに含まれる。


 白熱球が揺れている。

 俺は雀の涙ほどの収入(多くは露店で手作りの装飾品を売る)と、時々柳女史から支給される出所不明の家賃と光熱費により、貧困街に三畳ほどの一室を借りていた。白熱球を天井からぶらさげ、ただでさえ手元しか照らされないのに、その日は朝からひどい雨が降っていた。

 普通、子供をこんな貧困街に連れ込んだりはしない。この辺りは貧しい者が多いから、犯罪者が多いというわけではなくとも、物騒でないといえば嘘になる。みな生活のためにやむなく盗みを繰り返すのが常だし、女との関係も持てないものが多いから、相手が子供であっても、こぎれいで美しい少女であれば大いに危険はある。

 少女、名前を荻野千波夜(ちはや)、いかにもこぎれいな美しい少女で、目つきは明るいが、どこか凪のような落ち着きを持った子供だ。

 最初に会ったのが鴎神社の貧困区域で、その後、妙な話だがなんとなく会うようになった。いや、俺が出向かなければ、彼女はとにかく危機感がないからどんどん貧困街に迷い込んでしまう。彼女は俺を探して迷い込んでくるようだったので、俺の方から彼女を探し、早々に保護するようになった。保護、と言っても、隣に並ぶだけだ。しかし長身の男が隣に並ぶだけで、誰も彼女に手は出せなくなる。俺は彼女に、会いに来る日を前もって知らせるよう告げた。そのため、別れ際には次の約束をするようになってしまった。

 雨が降ると、行き場がなかった。

 見栄を張って喫茶店に長居できるほど稼ぎもない。

 晩秋の雨の日は冷えて、俺は彼女を家に招かざるをえなかった。他に安全で、暖をとれる場所がなかったのだ(とはいえ、家に暖房器具はないが、外より屋根の下の方がましだ)。それで、俺は彼女を家まで連れ帰った。

 狭く薄暗いので、近づいて座った。畳の上すらも湿気て冷たいので布団の上に並んだ。雨の音を聞きながら、手話で雑談をした。話の内容は、大したものではなかった。

 なぜそれで、彼女が頬を赤くし出したのかわからない。

 なぜ、彼女が俺に対して照れるのか、わからなかった。

 千波夜は素直でいい子だ。明るい顔立ちをして、まとう空気は静やかで、じっと相手の目を見る。目の奥に何かが沈んでいる。なんだろうか。心の闇。違うかもしれない。でも、そうかもしれない。

 闇には大抵恐ろしいものが潜んでいるように思われるが、それは単に、暗いからに過ぎない。見えないものを人は極端に恐れる。視覚情報が人に多くの安心を与えていることは間違いない。明るければたいていの人は安心する。感覚的に、暗い場所には何かが潜んでいると思われがちになり、実際そのような「使われ方」をする。暗い場所に紛れ、犯罪が起こる。暗い場所は事実上、心の闇のふきだまりとなる。

 千波夜の目の奥にある闇は、なんだろうか。じっと見ていて、恐ろしいものではない。千波夜の瞳の中心に映っているのは、小さくてよく見えないが、自分自身に違いない。闇の中には自分がいる。その状況下にあって、見つめ合っていると安心するのはなぜだろうか。俺は安心していた。確かに。雨の音と、白熱球による薄暗さと、寄り添って座り、意思疎通をする大人びた子供の、目の闇の中に自分が包まれている事実。安心する。エマと寝ている時よりも、ずっと安心する。

<何歳だっけ?>

 俺は唐突に、聞いた。

 千波夜はゆっくりまばたきをして、指で「14」を示した。俺は、クリスを思った。クリスと出会ったのも14の時だ。

<ゼンは?>

 千波夜が「あなたは?」の手話をした。俺は少し沈黙して手を止め、そのうち「同い年」などと返して、笑われた。

 千波夜の髪の結び目が、雨の湿気でほつれている。手話で教えてやると、千波夜は髪をほどいた。黒く長い、若い髪だ。ところどころほつれてからまっているのを、彼女は直す。俺も、目に付いたので二箇所くらい直してやった。傷みのない美しい髪だった。エマには悪いが、子供の髪というのは質が違うのだなと感心する。その辺りでは、千波夜も別に頬も赤くしていなかったし、照れている様子もなかった。と思う。

 それからまたしばらく、他愛もない会話を続けた。雨は降り続けた。千波夜は髪をほどいたままにしていた。千波夜の名前の漢字は、千個の波の夜だ。俺は本名を教えてやれない。柳女史の提案で、脱走者たちはみな正体を隠すため、ニックネームで呼び合うようになっていた。俺は財前歩。ザイゼンの「ザイ」では仲間内にいる別の男とかぶる(その男の本名は知らない。興味も特になかった)ので、俺は「ゼン」となった。ゼンという音は「全」も意味しているように思える。気に入ったので、このまま永遠に「ゼン」を名乗ることになってもかまわない。

 俺と同じく脱走した鵺の362は、その姿かたちを揶揄し、「ザクロ」と呼ばれるようになった。顔、体の丸みと、ザクロを割ったようにばっくりと裂けた口が、まさにそれに似ていた。ちなみにエマは、本名をローラ・エマーソンという。

<学校ってどんな感じ?>

 俺は聞いた。そろそろ話題も尽きる頃だ。

 彼女は、たどたどしく手話を繰り返した後、表現しきれず、言葉を話した。俺としては、耳では人の言葉はわかるので、それでかまわない。

「勉強して、お昼を食べて、勉強して、帰るだけ。お昼と、帰る時が、好きなの」

 俺は頷く代わりに笑った。千波夜も微笑した。

「仲のいい子が二人いるの。一緒にいると、安心する」

<安心>

「安心。あとは、お兄ちゃんといる時も、安心するよ」

<お兄さんがいるの>

「夜ときどき、一緒に寝るよ」

<お兄さんはいくつ>

「16歳」(ここは手話を添える)

<仲がいいんだね。お兄さん、好き?>

「好きよ」

<どんな人>

「あんまりしゃべらないけど、やさしい人よ」

 まるで恋人のことを話すような口ぶりだ。俺は微笑ましく思った。もしかしたら、この年の妹というのは、好きな兄のことを恋仲であるかのように話すのかも知れなかった。現にエマも、五つ離れた兄の話を、うっとりとすることがあった。エマの兄は病気で他界しているが、語るエマの顔に影は差していない。兄が俺に似ているとさえ、エマは言う。エマはそれでいて俺と寝るわけだから、その辺りの感覚は不思議なものである。恋仲のように語ろうと、兄弟姉妹は兄弟姉妹に過ぎないので、通常は現実問題恋をしているわけではないと思われる。

「お兄ちゃんはなんか、雰囲気は、ゼンに似てるかも」

 千波夜が急に言って、くすくすと笑った。

 俺は、え、と思った。思ったが声は出ないので、凝視するにとどまった。そうだ、そういえばそうだ。これがきっかけで凝視したのだ。それで、凝視している間にふと千波夜の目の色が揺れたような気がして、俺は更に凝視せざるを得なかった。そして怒られた。凝視しすぎだった。千波夜は頬を染めてうつむいた。白熱球の下で、俺は彼女のかすかに赤らんだ首筋を、細い、と思った。


 25日。水曜日。夜。汚れた裏路地。好きだと言われる。

 もしかするとそれ以前の雨の日の態度で、既に答えは出ていたのかもしれない。

 千波夜は兄を慕っており、恋仲であるかのように話して聞かせ、俺が兄に似ているとまで言った後、彼女にしては珍しく瞳を動揺したように揺らした。それが全てだったのだ。俺は千波夜の兄ではなかった。

 狭い路地で千波夜を抱え、見上げると月が美しかったので、千波夜に教えてやろうと思った。しかし抱きしめていたので手話は使えず、鵺の発音となり、千波夜には伝わらなかった。マスクをしたまま口を口のあたりに押しつけたのは、それが愛情表現であることを伝えたかった反面、確かに罪悪感があったからだ。直後に千波夜が「ちゃんとマスクを外して」と怒ったとき、俺は嬉しかったような気もしたが、同時に少し、怖かった。彼女がまだ若く子供であることは、彼女には関係がないのだと直感した。いずれにせよ俺はエマの目を潰してしまったから、グループにはもう戻れない。362もそこに残してきてしまった。しかしもうクリスはおらず、362もクリスの片鱗は抱えていたが彼は彼だ。

俺には行くべき場所がない。俺はどこかへ行く必要がある。どこでもない場所へ行く必要がある。それだけが明確に決まっている。

愛する者が生きていれば問題はない。

愛する者が消失しなければ、何の問題もない。



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