エースであるということ

Facebookを開いたら、過去の投稿(2016年12月27日)が出てきました。この時期らしい内容だったので再編集・加筆して転載します。

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いよいよ箱根駅伝が近づいてきて、出場する大学の監督、選手たちは本番に向けて最後の準備を整えていることかと思います。

もう20数年前の話になりますが、私の箱根駅伝は、1年の3区(区間6位)に始まり、2年も3区(区間3位)、3年は4区(区間新記録で区間賞、チームも総合優勝)、そして4年は2区(3位)と4回出場しました。その中で、私のその後の競技人生に大きな影響を与えたのは、2区を走った4年時の経験でした。

最近では急な上り下りが続く5区にエースを配置する大学が増えましたが、私たちの時代、特に早稲田大学ではエースが2区を走るのが当たり前でした。その座を争って私と同期の武井隆次選手、櫛部静二選手、そして2年後輩の渡辺康幸選手の4人は、日々ハードなトレーニングに励んでいました。

第70回(1994年)箱根駅伝。
前回大会、8大会ぶりに総合優勝を果たした早稲田大は連覇を狙っていました。11月の全日本大学駅伝では、2位に4分以上の大差をつけて連覇を達成していましたので、箱根駅伝も…そんな期待が自然と高まっていました。
箱根駅伝でライバルと考えられていたのは、留学生S.マヤカ選手がいて、5区、6区にスペシャリストを揃えている山梨学院大学。早稲田大学としては、前回大会同様、前半で流れに乗って往路を制し、そのまま復路も逃げ切るというのが必勝パターンと考えていました。そのためには、チームのエースがライバル校のエースであるマヤカ選手と2区で互角、もしくはそれ以上の走りをすることが求められていました。

「今後の練習を見て一番強い選手に2区を任せる」
この年、これまでは12月上旬だった区間エントリーが、12月下旬に変更されました(現在に近い形)。上記の言葉を暗に告げられていた私たち4人のエース区間争いは、区間エントリー間際の12月下旬まで続くことになりました。

前回(69回)の箱根駅伝1区で区間新記録で区間賞を獲得している櫛部選手。過去3大会(67〜69回)で全て区間新記録で区間賞を獲得している武井選手。前回2区で区間2位と好走し、その年のユニバーシアード10000mでマヤカ選手を破って銀メダルを獲得している渡辺選手。そして、その年の5000m(13分28秒)、10000m(28分11秒)で学生トップの記録を出していた私。実力的には4人のうちの誰が2区を走ってもおかしくない状況でした。
私は夏の海外遠征で5000m、10000mの自己記録を更新した後、9月の日本インカレ5000mでも渡辺選手に競り勝って優勝しました。その後、足を痛めて休んでいた時期があり、10月の出雲駅伝は5区で区間2位でしたが、11月の全日本大学駅伝では8区(19.7km)を任されて区間賞を獲得しました。
全日本大学駅伝を圧勝で連覇したこともあり、良いムードの中で私たちは箱根駅伝に向けた強化練習に入りました。

私はケガが多かったこともあり、全体とは別の流れで一人で練習を行うことが多くありました。11月下旬のこと、私は神宮外苑で単独で20kmタイムトライアルを行い、58分50秒で走りました。それを聞いた櫛部選手と渡辺選手も、12月上旬のチームの20kmタイムトライアルで59分前半で走りました。その頃、武井選手は足の痛みを抱えており、レベルの高い練習ができない状態が続いていたため、2区争いは武井選手を除いた私たち3人に絞られました。

エントリーの数日前、私は瀬古さんに呼ばれました。
『今回の2区はおまえに任せる。』
そう告げられて私はうれしい反面、不安もありました。20kmタイムトライアルを58分台で走った後、私は体調を少し崩し、その後に予定していたスピード練習ができませんでした。ベストタイムではマヤカ選手を上回っていたものの、トラックレースでの直接対決では負けており、またロードレースでは一緒に走った経験がなかったからです。

『僕は2区を走る自信がありません。瀬古さんの期待に応えられるような走りができないかもしれませんし…』
エントリー直前、私は瀬古さんに会って、自分の正直な気持ちを伝えました。
『今年のチームのエースはおまえだ。エースというのは、どんな状況であっても逃げてはいけない。それを乗り越えなくては真のエースにはなれないし、世界では戦えないよ。』

最終的に私が2区を走ることになり、渡辺選手は1区、そして櫛部選手は9区を走りました。
私は当時の早稲田大学の歴代では一番速いタイムで2区を走りましたが、瀬古さんの期待に応える走りはできませんでした。
エースであるということ ー それは名誉であると同時に、非常に大きな期待も背負っているのだということを私は身を以て知りました。

大学を卒業して実業団選手となってからも、瀬古さんからは何度となく『エースとしての働き』を求められました。自分ではかなり良い走りができたと思っても、期待が大きい分、評価してもらえないこともありました。
『こんなに頑張ってるのに…次は見てろ!』
そんな思いが、私の競技者として成長の活力につながっていたに違いありません。