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「受け入れる」ということ

重要な他者に無条件で受け入れてもらう経験というのはそんなにないことかもしれないけど、ないならないで以後いろいろ問題を起こしがちになる。

僕自身の場合で言えば、両親や兄妹はそれなりに僕を受け入れてくれていたし、特に母親は過保護と言ってもよかった。ただその方向が彼女独自路線だったのが僕自身としては時々辛かった。父は「勉強でもスポーツでもうまく行ったら褒めてやる。失敗したらディスる」路線でビジネスライクのドライさだった。

要するにどちらも「子供の話をしっかり聞いて」はくれなかった。

小6の冬、当時全国的に有名だった進学塾の経営者が書いた本を手に取り衝撃を受けた。曰く「中高のだるいお勉強など無視してさっさと自学自習を進めいい大学に行け」と。これを真に受けた。その人の本は全部買って熟読した。両親に本を読んでほしくていつも横に置いていたが「そんな本しまいなさい」だった。1文字も読んではくれなかった。

両親は「普通に学校に行って真面目に授業を受けなさい」の一点張りだった。まあそれが「普通」だろう。友達はいたのでちょくちょくサボりつつも中学校には行ってた。そんな中、僕の無茶な言い分を無条件で受け入れてくれようとしたのは、家族ではなく、まさかの担任教師(大学出たての女性教師)だった。先生は職員会議で僕の言い分を伝え、許可を仰ぐことまでしてくれた。ただもちろん学校として「授業は受けずに自学自習」など許可できるはずもなく、また僕は僕で「わかりました、授業を真面目に受けます」となるわけでもなく、以後問題行動の日々となった。

その塾は大阪にあって通うことはできなかったので、また、5教科を自学自習することも難しかったので、数学一本に絞って自学自習を進めた。その甲斐あって中3の時には数学エリート御用達の月刊誌『高校への数学』で表彰されたりもした。

数学はどんな難問でも時間をかければ解ける、という自負があった。その本に載ってる難問は、実際時間さえかければ全部解けた。今頃わかったのだが、数学は当時の僕にとって「無条件で受け入れてくれる相手」だったんだと思う。「言えば(考えれば)わかってくれる相手」でもあった。

ただ数学だけできても高校には行けない。かろうじて拾ってくれたのは、陸上競技の成績で入れてくれた私立校だった。でもソリが合わずすぐに辞めた。

先日のカフェ活でお相手の方が「小学校の時に友達がいるかどうかで、その人のその後が決まると思う」とおっしゃってて、僕の場合小中と友達はいたのでその後の人生で道を大きくは外れなかったのかな、とその時思った。これで孤立していたらと思うとゾッとする。

中学時代は問題児、高校を2度辞め大学も1度辞め(ついでに言うなら予備校も2度行き)、とめちゃくちゃなコースを「歩んできた」のだが、人と違ってそうなってしまったのはなんでかな、とずっと考えてきた。今までは「自分のしたいことと社会の求めるものの間にズレがあって、僕はそのズレをなくそうとはしなかったから」と考えていた。つまり自分自身の元々の性格の問題だと思っていた。

でもこれも今頃気付いたんだけど、たぶんそうではなく、「自分を(無条件で)受け入れてくれる相手などいない」と固く思っていたからそうなったんだと思う。

だから東京の大学に行った時、謎に親兄弟と戸籍を分けようとした(分籍)んだと思う。めちゃくちゃ怒られてそれはやめたけど、当時なんでそんなことしようと思ったのか、自分でもわからなかった。そもそもバイトもせず全部仕送りで生活していて、すごく恵まれた環境だったんだけど、ただアパート等々を決める時も母親と姉がついてきて2人で喧嘩しながら、つまり僕は横でそれを見ながら、決めていた。

お金出してくれるのすごくありがたいしうれしいんだけど、気持ちを理解してくれる方がうれしいよなー。とその時も思ってた。

時系列おかしいけど、中3の時の三者面談で、担任の先生(よく殴られたけど「わかってくれている」先生だった)が母親に「息子さんは自由の森学園とか、そういう高校が合ってますよ」と言ってくれたのだが、その時の母の答えは「うちにはそんなお金ないです」だった。いやあったと思う父親ゼネコン勤務で稼いでたので笑。

同世代の友人が少ないのも、24歳で入学した2度目の大学時代もぼっちだったのも、過去のこういった「経験」ゆえかな、と思う。若い時のバンド仲間と、あと少数の(中学の)同級生くらいしかいないもんな。

ちょうど一年前、酔った勢いもあって妻に酷いことを言ってしまったのだが、そして妻はその場で謝ってもくれたのだが、これも今思えば「君は僕を受け入れてくれていないじゃないか」という内容だった。

今若い人たちと楽しくカフェ活できているのは、世代的にも立場的にも「僕を受け入れてほしい」というスタンスではなく、「なんでも受け入れますよ」という逆のスタンスだからだと思う。そしてそこには自分自身の、今まで書いたような「受け入れてもらえなかったもんなー」という経験、思いがあるからだと思う。

受け入れてもらえなかったからこそ、受け入れたい。そのことで自分自身の「受け入れてもらえなかった」もどかしさも少しづつ減っていくんだと思う。


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