小説「一畳漫遊」 第四話 治らないなら家に帰ろう⑤

 おかげで、TS-1とシスプラチンのコンビネーションが有効だったようで、画像上認められるしこりは小さくなり、跳ね上がっていた腫瘍マーカーも徐々に下がっていった。嫁さんには、効かなかったら仕方ないさ、などと悟ったように強がって話していたけど、治療の効果が出ていると分かった時は当然ながらとてもうれしかった。そしてこのまま治るに違いないという考えに何とかしがみつこうとしていたのかもしれない。もともと抗がん剤治療と言うのは完治することが目的ではないと言うことを聞いていたのだが、俺は治るのに違いないと信じようとし、そうでない考えは否定してしまう心境になっていたのだと思う。実際に、治療を開始して半年後には、腫瘍マーカーは正常値となり、CTでは再発した腫瘍がわからなくなっていた。検査では全く正常となったのだから、その考えに対する自信を深めていた。

 ところが、治療を開始して約9ヶ月経った頃の血液検査で、腫瘍マーカーの値がわずかに正常上限を超えた。その日のうちに腹部超音波検査をしてもらったが、エコー上は明らかな再発は認めなかった。治療を続けながら1ヵ月後に血液検査の再検査と、造影CT検査を行うこととした。そしてその結果、マーカーは跳ね上がり、画像にもはっきりと再発巣が写っていた。私の願いは叶わなかった。居川先生はセカンド・ライン、サード・ラインと抗がん剤の治療方法があると説明してくれたが、その治療を受けることはお断りした。治るという思いが強すぎて、再増悪したという現実を受け入れられなかったのだと思う。

 それに、再発後の最初の治療が効かなくなれば、そこで治療はやめようと最初から心に決めていたのだ。次の抗がん剤治療を始めたところで、同じことの繰り返しになるだけだろう。もう喜んだり、落ち込んだりするのにも疲れた。もう全ての治療はやめて、自宅で過ごすことと心に決めた。家内には悪いが、看取ってくれと頼んだ。近所の医者に、最後の診断書を書いてもらうことと、状態が悪くなっても決して病院に搬送しないように頼んだ。

 実のところ、最後まで家で過ごせる自信があるわけではなかった。途中で強い痛みなどが出ればやはり痛み止めが必要になってくるように思っていた。しかし幸か不幸か、私の再発部位は肝臓であったためか痛みを感じる事態にはならなかった。肝臓の転移巣が大きくなってきたために肝臓の機能がおちてきていたのだと思うのだが、倦怠感が強くなり、黄疸も出てきた。ただただだるさが前面に出てきた。ときには起きているのか寝ているのか分からないような夢うつつの状態になったりした。そんなときには子供の頃の景色や若かりし日の思い出などが浮かんでは消えた。

 布団の上という限られた空間からほとんど出ることができなくなったことも、それほどつらいとは思わなかった。その後あまり苦しむこともなく旅立てたのは幸いだった。自然に体が枯れてきて、すっと離陸できたという感じだろうか。抗がん剤治療を続けていれば、もう少し長生きできたのかもしれないが、きままに自宅で過ごすなどということはできなかったかもしれない。だから、あの時の決断に後悔はない。

 当然ながら、死ぬまで生きている。最後が近づいても、自分にとってはその時をいかに生きるかということが最も大切だ。その際にはそれぞれの考え方があっても良いだろうと思う。皆さんも、私のような例を見ながら、自分ならどうするか考えてみてくれると、わざわざ出てきてお話させていただいたかいがあります。皆様のよき人生を祈ります。では、これにて失礼。


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