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『夢声影画』『後日譚/初声影画』ができるまで&簡単な解説

 どうもこんにちは。はなです。普段は……まぁそんな挨拶いらんか。
 ということで、ね。とうとうここまで来てしまったので、いつ書き終わるかわからんnoteにでも着手しようというお気持ちでこうしてPCと向き合っています。
 このnoteは冬コミの本と後日譚の出来上がるまでの流れとか考えたこととか頒布してどうだったとか遊んだこととか書けたらって感じで書き始めました。のでめちゃくちゃネタバレ踏み散らかします。「お前の本まだ読めてないぞ!」「そもそもユウカ本もアツコ本も読めてないぞ!」って人は今すぐこんなnote閉じてページを開いていただければ。マジで頼みます。こんな場末のnoteで貴重な読書体験を奪ってしまいたくないので(あと半ばこれは自己満だし読んでおもろいかと聞かれると微妙な反応しかできない気がするので 脳死で書いているので途中テンションがおかしくなるかも)。
 念のため書き始めようと立ち上げた日付(2024/01/23)を記しておきます。書くのにどれだけかかったのかとモチベの無さを残しておくため。
 それでは。

『夢声影画』ができるまで

7月某日~ アツコ本を頒布し終えて

 この時から……というか、多分去年の4月の京都ぐらいからもう言ってたんじゃないかな。「冬コミは絶対サークルで参加する」って。確か言ってたような気がします。というのも夏にしなかったのは単純にその前後でリアルが忙しくなるのが目に見えていて(進路の問題)、来年春には就職するからできるなら今年の冬か……って消去法で冬コミに出るって決めました。選択肢が無かった。
 てことでアツコ本を5月中にせこせこ初稿を完成させ、6月中にPCと格闘しながら練り上げ、7月頭に頒布しましたとさ。めでたしめでたし。ちなみにその次の週進路関係のペーパーテストがありました。いつでも限界だな、お前……
 で、7月中旬から下旬の記憶がほとんど無いんですけど、確かヨルシカに焼かれて水着イズナのコピ本書いていた気がします。その時点で「冬コミで書く話はせっかくだし今まで書いてきた子の中から数人選んで群像劇をやろう」「あと冬コミを境に今の名義で物書きするの辞めよう」と決めていました。群像劇にしたのは確かTwitterで見た群像劇が初心者に何たらとかそういうツイート見たりカゲロウデイズの小説久しぶりに見て群像劇っていいなって思ったからです。ちゃんと方向性が決まったのは某方の夏コミの新刊を読んでからなのですが。「この名義で書くの冬コミを最後にしよう」と決めたことについては後述します。

 メモルミで頒布した水ナのコピ本の方向性を決めて書きつつ、8月下旬にある進路関係のイベントをこなし、夏コミに一般で参加し、書いて……と作っていくうちに、確か「せっかくだし水ナのコピ本の話のイフの話を冬コミで書こう」って決めました。そこからプロットを組み始めたのが確か10月の頭のことだった気がします。9月中旬から10月頭にかけてリアルが忙しくなりすぎてそれどころじゃなかったんですが。

10月 プロット切り・プロローグ&1章

 確か10月の頭~中旬のことだったような気がします。その時のプロットは確かこんな感じだったと思います。

・「先生の『弱さ』を水ナのコピ本で出したからその話を広げよう」
・「先生が救えなかった世界の話を書こう」
・「『弱い先生』の手を引っ張って外の世界に連れ出す『誰か』、ここでの『誰か』は特定生徒と読み手に察されないようにうまく描写すること」
・「『弱い先生』が作り出したキヴォトスで群像劇の主役の生徒は日常生活を送るんだけどある時それが偽りのものだと知る。まどマギの『叛逆の物語』みたいな感じで先生はその世界とは別の次元の世界に居て、その先生に対して手を差し伸べる」
・「ブルアカ本編では『先生=プレイヤーのみんな』という前提があるけれど、冬コミの新刊はそれを逆手にとって『先生の手を引っ張る彼女=誰でもない少女(特定の生徒ではない、各々が考える『誰か』)』という図式を成立させよう」
・「それぞれの少女たちは偽りのキヴォトスで干渉することは無い。鏡に映る自分の姿に触ったり鏡の中に入ったりすることができないのと同じで、彼女たちが干渉すると世界が壊れてしまうため」

 ぐらいだったかな? メモに書き残したはずのプロットを書き終えたら全部消す悪癖があるので(そうやってアツコ本の時も詳しい日時を書いたものを消した)これ以上の詳しい話は覚えていませんが、確かこんな感じで三重次元の物語にしようとしていた気がします。当時は映画モチーフで……という話は出てきてませんでした。

 あとはモチーフ曲とキャラクター(生徒さん)たちですね。割と最初の頃に「アツコとユウカは本にしたのでもう一度書く」「ミカは書きたい」って話は出てて、その3人は後から曲を考えました。最初は6章までやるつもりで、連邦生徒会長(『劇場』にて—— が当時は6章に当たる予定でした)と残りの2人をどうしよう……と。そんな中でずっと昔に考えていた「AI作品が氾濫した世界でゲームを作るゲーム開発部」の話が上がってきて、方向性はだいぶ変わってしまいましたがじゃあミドリで、と決まりました。ミユは唯一、曲が先に決まってから決まりました。選曲については後述しますけど、生徒さんが先に決まった章は各章を書き始める直前になって曲を変えたり書き始めてから曲を変えたりしてました。ミカは決まってからずっと動かず(書きたかった話だったので)、ミドリも動かず、ミユは曲が先に決まっていたので動かず、ユウカはずっとペンリサでいいのか悩み、『A WILL』でいいのかも悩みました。アツコの話も同じで、タイトル含め『Eden』を持ってきたのはだいぶ後になってからでした。ちゃんとしろよ。

 で、10月中旬になってようやくリアルが落ち着いてきたタイミングで『アルジャーノンに花束を』を 読んでから、いよいよ本稿に着手……で、確か10月20日に読み終わって書き始めたのでそこから大体1週間半かかってます。ミカの話。
 あとこの辺りでだったか、「映画」モチーフって話が上がりました。プロローグから順当に書いていった気がするので多分ここだと思います。「フィルムを取り換えるように話が切り替わって、スクリーンでその様子を見ている先生とノレア」の図式を確立させたのがここです。ノレアの名前は「『劇場』にて—— Side:T」を書き始めてから設定しました(当時は「名前を明かしていないけど連邦生徒会長」って感じの設定だったので)。

 ちなみにこの辺りで、サンアカ4(2024/01/20)に出よう!と決めました。と言っても冬コミに持って行ったものと全く同じで何も持って行かないのも何かな……と思ったので、「冬コミ単品では完結しない」という意地悪をしようとアフタストーリー的な後日譚をコピ本で出そう!と決めました。申し込みも確かこのあたりだった気がします。

11月前半(~11/17) 2章・幕間Ⅰ・3章・幕間Ⅱ

 #しんちょくどうですか タグで検索かけてもらえば自分の当時の進捗状況と言い訳が見れるの、結構振り返るうえでも便利ですね。
 ミカの話が11/2に終わって、ミドリの話と幕間Ⅰが11/8に終わってます。文字数ほとんど変わらず大体2000字/13000字を6日で終わらせたので多分原稿書くのが楽しくて仕方なかったんでしょう。詳しくは解説で書きます。
 で、3章。霞沢ミユさんの話。11/8から11/12まで確か風邪ひいてたのでほとんどまっさらな状態で書き始めました。ちなみにこの風邪のせいで名古屋行きの話が飛びました。個人的にミカの次に書くのが苦しかった気がします。というのもミユさんの掘り下げ(というか一般向けを書く上での自分の中での落とし込み?というかそういうの)がほとんどできておらず、まず彼女のパーソナリティを分析して研究する必要性があったので。絆ストーリーとかメインストのフォーカスが当たっているところとかをかいつまんで読んでいくうちに時間が無くなったり、あとは今後の文章の方向性を大まかに決めたり(ぼんやりと考えていた「弱い先生と鏡の世界」のオチを大きく変更する、映画館に変数である生徒が乱入するようにする、等の条件付けをここで行いました)、ほかにもいろいろやることがあったので進み自体はそこまで早くないです。結果として11/17に3章と幕間Ⅱ(多分2000~3000字ぐらい)を書ききって、幕間Ⅱで「夢の中でのキヴォトスに起きた変化」を書ききることにしました。

11月後半(11/18~) 4章・『劇場』にて——・5章・エピローグ

 4章。タグ検索しても眠いしか言ってない。『銀河鉄道の夜』モチーフなうえにアクションがある訳でもないのでそりゃそうなんだけれど。ユウカを書き始めたのが11/18(この時点でアツコ本を超えてる、って話を結構押し出していた)、書き終わったって言ってるのが11/24なので大体こちらも13000字を一週間弱。『銀河鉄道の夜』を読み込んだりバイトなり卒論なり飯行ったなり色々あったけどそれを差し引いてこの速さはそこそこ速い方なのでは?

 『劇場』にて—— 。もともと6章にするつもりだった「連邦生徒会長と先生、非特定生徒」との対話。イメソンはもともとここで『A WILL』の予定でしたが、繰り上げて4章でということに。その代わりアツコの5章を短めにしました。もともと無かった予定だったし。11/24~11/26の二日間で9000字ぐらい書いてる。怖い。そんな時間は無かったはずなんだけどな。ちなみにジャパンカップ現地・WINSを泣く泣く諦めて書いてました。
 5章とあとがきとエピローグ。ゼミの卒論の面談の関係で11/27は卒論を進めたので実質11/28~11/29で10000字ちょっと進めてることになるのか。すげぇ。ちなみにエピローグはここからさらに第三稿、第四稿までで数千字増えました。

12月 細かい修正と卒論・脱稿

 もともと「11月中に冬コミの原稿は初稿を完成させる」(表紙絵と卒論のスケジュールの問題)「12/15には脱稿する」って言いながら書いていたので、結果的にミカの話が長引いたり風邪ひいたりはしましたがスケジュール通りに行けたな……というお気持ち。後は脱稿……でしたが、表紙が脱稿スケジュール的に13営業日発送だとギリギリだったので9営業日発送に変えて何とか印刷所さんに納品……したはいいんですけど、結果としてありえん早く(確か12/21?22?とかにはもう届いていたような気がする)届いたので13営業日でもよかったな……別に発送28日で29日に着弾しても間に合うし……と今になって後悔。卒論の方はこっちも書くこと書いてトータル20P/20000字と少し(ノルマ10P以上)で12/18辺りに脱稿できました。提出締切12/21なのでめちゃくちゃギリギリ。単位は出た。多分。そのはず。変なこと特に書いてないし文量も書いたので。うん。
 なお私事の追記ですがこの卒論、なんか知らないけど学科長のゼミの先生の目に留まったらしく「私の推薦で優秀論文として上げて置いたから卒業式の時に表彰されるかもね~」って告げられました。マジ?

12月末 冬コミ

 サークル側でのコミケ初参戦。一般では高校の時に友人と2、3回と去年の夏コミ(それ以前はコロナと多忙で行けなかった思い出)だけだった気がするので多分そんなにコミケ自体は行ってない方。
 ちなみに当日サークルに居た売り子がその友人です。普段は切り絵とか音ゲーとかやってたりするんでよろしければフォローしてください。伊落イラストリツイートマンです。 

https://x.com/Mi_385A?s=20

 まぁそれはそれとして(リンクちゃんと映ってるのか?) 。当日7時半前に国際展示場に着弾し、「すまん今からヤニ吸ってくる!」と喫煙所までダッシュした友人を待ち、7時半過ぎに会場に到着して設営……周りのサークルさんが入ってきているのを横目に設営を完了させ、開場前のあいさつ回りを済ませて……と(多分)当日はつつがなくことを運べたんじゃないかと。名刺を家に忘れた以外は。

 ちなみにこれは友人が切ったのを某フォロワーに自慢しに行ったやつです。ダイマみたいになった。草。

シュエリン

 1日目だけでも1700サークル?以上あってマジであいさつ回り含めて回り切れなかったところが多すぎて申し訳ないの顔。なお(後述)バタバタしててサンアカ4でも挨拶いけなかったところもある。いっぺん腹切った方がいい。
 それ以外にも普段SNSで話してるけど冬コミで初めましてだった方もいらっしゃいました。ありがとうございます……
 あとは印象的だった出来事。他にもバッグにつけていったタスティエーラのぬいぐるみキーホルダーを大井町辺りで無くしたり(もう帰ってこない多分)、差し入れでフォロワーからカントリーマアム1袋やかなり良いペンを頂いたり目の前を統括Pが通り過ぎて行ったりハレの声優さんが近くに来たり……とまぁ普段の即売会では味わえない空気を味わってきました。

 あとは今思い出して死ぬほど恥ずかしくなってるんですけど、寝る直前までユカリの成人向けSS書いていたので睡眠時間3時間弱とかでまともな判断力があるはずがなくアホほど人の顔間違えて話しかけてました。切腹で足りるはずがない罪。

 ちなみに友人と打ち上げ行こうとしたら「俺も寝てない、今酒飲んだら死ぬから今度にしよう」って話になり、横浜で新刊の選曲と流れ通りに歌うバケモンみたいなヒトカラ行って川崎担々麺を食べる怪物になってました。孤独。

 そのあとはまぁ年変わる直前まで宇沢の小説書いたり年変わってからふぁぼ付けた人に一言~みたいなやつやったり夜明け前に鶴ヶ岡八幡宮まで行って参拝チャレンジしたり江ノ島海岸で初日の出の写真撮ったりしましたがまぁそこらへんのツイートは掘れば転がってると思います。

『後日譚/初声影画』ができるまで

1月 『後日譚/初声影画』ができるまで

 まず『後日譚/初声影画』の構成について。
 サンアカ4の申し込み出した時点で「冬コミで出す本は自分が本当に語りたいことの半分にとどめよう」「本の説明(というか蛇足)はサンアカ4で出すコピ本で書いて、そこを最後にして筆を置こう」と決めていました。でも具体的に何を書くのかは決めていなかったので結局正月三が日中にプロットが上がることは無かったんですが。
 元々『後日譚』というじん氏の曲で書く、ということだけは決めていたのですが言い換えればそれ以外は何も決まっていませんでした。おしまい。なのでせっかくだったら「名義消し飛ばす訳だしどうせなら喧嘩売るぐらいの勢いで書いちまえばええんじゃね?」って感じでダーッと書き殴りました。というのも、「メモルミで出した水着イズナのコピ本と冬コミの新刊は一応別世界線でつながっているよ!」ということを言うために、あと冬コミまで駆けてきて考えたこととかを小説という形で代弁させるために書いたようなもんですから。解説とかは後回しにして、実際まぁそういうような描写が多くなったんじゃないかなとは思います。
 あとは『初声影画』について。もともとの構想段階では「奥付にQRコードを貼っておいてスキャンすると限定公開の楽曲が聴ける」って感じにしようと思っていたのですが、冷静に考えて時間が足りなかったことあとは文脈の都合で歌詞のみに留めました。正直あの歌詞で曲が作れるかと問われれば無理って言うと思います。経験値が足りん。

サンアカ4

 寝坊しました。サークル入場開始が10時半で起きたの11時前です。ただの死刑じゃねぇぞ。ド級の死刑、ド死刑。
 まぁそれはそれとして(よくない)。売り子さんと連絡とって何とか当日12時過ぎに入場して、友人に手伝ってもらって12時半から頒布開始……と、なんかめちゃくちゃバタバタした設営と頒布になってしまいました。マジで反省。
 そのあともあいさつ回りに行ったりフォロワーのスペースに挨拶がてら少し話そうと思っていたら30分ぐらい話し込んでいたりとかトキ(のコスプレイヤーさん)に銃向けられて遊んだり某フォロワーに差し入れでガラム(知らない方はググってくれ)を1本頂いたり、今までサークル側で参加してきた即売会の中で一番楽しかったかもしれないです。午前中の諸々はともかく。
 それと一年前に初頒布したユウカ本『早瀬ユウカを文学する。』の書籍版が全て頒布終わりました。なんか去年あったサンアカ2が今の自分の原点にもなっているので嬉しい限りですね。

 新刊とコピ本の方はぼちぼち手に取って頂いてありがたい限りです。ちなみに同時に配ったアツコの誕生日原稿は前日の日付変わった辺りから書き始め、夕方に最終確認をして夜印刷して製本しました。そんなだから寝坊するのでは。
 これは打ち上げの写真。神絵師の腕。めちゃくちゃ楽しかったし普段はなさないような話もできたので今でも思い返しては楽しかったな~~~と浸っています。ちなみに誤字っているがこの時は素面であり飲酒した後は全くと言っていいほど誤字っていないのである。もしかしてアルコール入っている状態がデフォルトなのでは?

 後は解散してから少し時間があったので横浜ブルグ13でゲ謎を見に行き無事に破壊されました。なんでだよ。
 なおこれ以上語るとこのnoteがゲ謎のnoteになってしまうので自重します。
 ちなみにこの次の日は水着アリウスのカットが出されて秤アツコさんちゅきちゅきbotになります。untilコマンドで検索してくれればクソキショ=オタクムーブが見れると思います。今更これぐらいの恥さらしでは立ち止まっていられない。

『夢声影画』について 簡単な解説とか

 ここからはネタバレ全開のフルスロットルで行きたいと思います。

ミカの話について

 まぁサンアカまでの話はある程度語りつくしたので、ぼちぼち作品の話に入ろうかと思います。なおこれ以降はアツコ本みたいにガチで語る!!!というよりかは「こういう意図があるよ~」「こういうこと考えながら書いたよ~」って解説なので、ガチガチの解説はしないつもりでいます。そこらへんはまぁせっかく読んでいただいたので、読んだ方が各々考えて思っていただければと。

 ミカの話。着想は「子どもの時、子どもは口をそろえて『おそらからこの家がいい!って選んで生まれてきた』と言う」って言葉からです。記憶が曖昧・混沌としている2~3歳の時から、血縁とかに関係なく聞く話だそうなので、そこからヒントを得て「じゃあミカで書くとしたら?」という形に落ち着きました。ナギサ様との幼少時の会話とかも同じで、ミカのパーソナリティとか今の人格とかを形作っているものがこのころにできているはずで。今のミカの態度からするに、ナギサ様やセイアとのすれ違いを感じながらも、「でも私はこうしたいから」って自分への比重が大きいからあのような振る舞いをしていて、そこから逆算して「じゃあ幼少期は彼女はナギサ様とのすれ違いを感じることは無かったのか?」という観点で話を運んでいきました。

 次に「シャーレの当番に呼んでもらえない」という話。もともとは「先生とデートに行く」という体だったのですが、「エデン条約編の騒動後で彼女がそもそもデートに行ける程の自由の身であろうか」って考えからボツにしました。そこから「シャーレの当番で彼女が(奉仕活動のノウハウを生かして)菜園の手伝いをする」って形になり、じゃあきっかけをどうするか?って考えた結果「『あの一件』以降シャーレに呼んでもらえない」「でも『先生とお出かけ』する予定が書きこまれている」ってなんか辻褄の合わない感じになっちゃいました。ここら辺違和感抱いた方はマジですみません。

 ミカの羽の怪我の話。完全に元ネタ曲の『SWEET HURT』に引っ張られている節はありますが、「素手で壁をぶち破りミメシスの大軍を薙ぎ払い(疲弊しているとはいえ)ゲリラ戦が得意のサオリとタイマン張る」ミカが不意に怪我をする、という描写は入れたかったためこういう形になりました。彼女の危うさとか脆さを引き出して後半に繋げる意図がありました。性格が悪い。

 ミカの『夢』の話。先生を看取る少女、の構図は、ともすればアツコ本の着想となった某方の小説を、あるいはアツコ本の内容を思った人は少なくないかもしれません。「少女」と描写することで特定することを避けた節があります(『夢声影画』の本質的に、明確な生徒名として存在する人間の数を絞っているため。それは『夢声影画』の神髄でもありますし、ブルアカというゲーム性・「先生はあなたです」というテーゼに対するアンチテーゼでもあります。詳しくは後述)。「私はあなたにはなれないし、あなたに憧れることしかできない(=だって私は魔女だから)。ともすればあなたに憧れることは、あなたの名を穢すことにすらなり得る。私に足りないものを認識したけれど、それを埋める手段はない」というのが、自分がエデン条約編後のミカに対して抱いたパーソナリティで、不器用ですが彼女は「足りないところを別のパフォーマンスで埋める」ことでバランスを取ろうとしている、そう思いました。最終編のミカの動き然り。なので「……そっか。ありがとうね」って言葉が彼女の口から漏れて、その後、彼女は彼女なりに頑張って「シャーレの当番にまた私を呼んで欲しい」って一歩を踏み出す……そういう形にしました。
 夢から醒めた後の「黒い破片」「赤い十字の黒い切符」は拙い四章の伏線です。

 そこからは書いた通りなので、特に解説する程ではないかな~~~と。
 あ、『薬よりも重い、甘い『毒』とでも呼ぶしかない』は『SWEET HURT』からの引用です。あとタイトルの『シュガーハート』は彼の有名な元競走馬、キタサンブラックの母です。

ミドリの話について

 このペースで書いていったらアツコ本note以上の文字数にならない?
 はい……

 『模煩的クリエトピア』、正直書いていてクッッッッッッソ楽しかったし、すげぇスピードで書き終えました。なんなら常に笑顔を浮かべながら書いていましたし、ほとんど初稿のままです。というのも、そもそものこの話のコンセプトとして「衝動的に書きなぐったような文章」を目指していて、ほとんど初稿のままで形に残すことに意味があると思っていたので。
 ガワの話をすると、多くの人に「某方の文章にすごく似ている」という指摘をいただきました。そりゃそうですよ、だってユウカ本でやったような筆致で書いたんですから(わかる人にはわかる発言)。テーマについては、特に創作やっている人に、心にグサグサ来るようなものを取り扱ったな、という自負はあります。
 正直この章だけで別でnote一本書けてしまうのですが、一旦それは読んだ人が何を思ったのかを大事にしたいので自重して。ここでは何考えたかとかそういうことを話したいと思います。

 まず「生成AIと創作の意味」について。これは作中に書いてある通りで、持論はほとんど全てこの中に詰め込みました。補足するなら「作品に意味や意図を持たせるのは人間側の仕事」だし、仮に自分の肉体が果てたとしても出力してこの世界に残したものは朽ちることなく残り続ける——それは芸術であっても自身の創作であっても、「誰かの心に残り続ける」ものであれば形を成しているか否かに関わらず。「才羽ミドリ」という人物は元はと言えば「絵を描くことが好き」で、「姉とゲームを通じて意気投合」して、「ゼリーズみたいなパズルゲームが好き」で、ユズの作ったティルズサガクロニクルをプレイして「ゲームが本当に好きな人が作ったんだという熱量に焼かれてゲームを作ってみたいと思った」訳で。「生成AIと創作」の話は、例えば姫木メルさんとか小塗マキさんとかほかにも他にも考え得たかもしれません。けれど、自分にとってはこの手の話は「創作の原点と情熱」が明確に存在する才羽ミドリさんにしかできないと思っていて、だからこそ彼女で書こうと決めました。
 ……いや、今思えばだいぶ酷い立ち回りを押しつけてしまったなと思います。だって本元のミドリの絆スト読んだか?お前。はい、読みました。絆2をたたき台にして書きました。人の心は何処。

 「たった十数秒で神ゲー・神曲・神絵が量産される」世界については、元ネタとなった原曲『ディストピア・ロックヒーロー』から着想を得ました。「音楽」が淘汰され、もはや誰も音楽に期待すらしなくなった世界で少女はギターを片手に音を掻き鳴らす……というストーリー性の音楽ですが、何とこの曲10年ぐらい前にcosMo氏が書いた曲なんですよね。最近生成AIについての話題が上がるたびにこの曲のことが頭に浮かびますし、何より10年前から「近い将来こうなるだろう」って予測していたcosMo氏ってすごすぎやしませんか? まぁかれこれ10年近く追ってるボカロPな訳ですけれど……
 ちなみにこの話自体、確か去年の夏の時点で着想はあって(裏垢に2023年7月25日に壁打ちしていたメモがあった)、その時は「ゲーム開発部が立ち上がる」って構図だったんですけど書き起こすにあたって才羽ミドリさんに焦点を当てたかったので内部分裂するという形を取りました。ユズが部室に居なくて、擦れて揉めて結局ミドリが逃避行動をとる……って流れは少し複雑でらしくなかったかも、とは思います。それ抜きにしても「才羽ミドリが(先生が居住を秘匿している)閉鎖空間に陥るとどうなるか」を描けたので満足ですが。

 若干R-18っぽい、退廃的な空気が流れていることについて。某氏の影響をモロに受けている……と一蹴してしまえば簡単ですがそうもいかないので。「ミレニアムを休学している才羽ミドリ」は「生徒としての才羽ミドリ」ではなくなっていて、だからこそ先生に手を出させた/ミドリ側が何かとかこつけて一線を超えさせたことが可能だった、というのを端的に表しています。ミドリがもう戻れないところまで来てしまったことを、退廃的な生活を描写することで表現したくて、それは何より「私の愛していたミレニアムは死んだ」というミドリの価値観・考え方を決定づけている証左なんですよね。

 正直いつ開いてどのページを出しても「表現強ぇ~~~」って感じはするのですが、あえて挙げるとしたら、pp.54~55は特に気に入っています。昼夜問わずひたすら書き続けている才羽ミドリさんの精神力と、世界はそれでも動いていく情景の静と動(動と静)の対比とか、この部分とか。お気に入りなので引用で持ってきましたが、特にここは自分が昔から言っている「小説を書くことは楽団の前に立って指揮を執ることと似ている」って思想に繋がってくるな~と思います。というかそのことを考えながら書いたし。

線の一本一本が音符のように連綿と繋がり、色と言う名の強弱表現、音色表現が加わる。文字通り、まるで交響曲でも指揮するように、或いは巨匠が白紙の五線譜のスコアに音を置いていくかのように、私は一心に「描」き鳴らす。

『夢声影画』P.54

 pp.58~60について。正直今でも「こんな取ってつけたようなハピエン描写を書いていいのか?」って思ってますし、全てが「ミドリの勘違いと独りよがりの思い込みから始まった」ってするにはあまりにも淡泊すぎないか?とは思いましたが、一方でこれ以降の展開を引き立たせるアクセントにはなったのかなと思います。にしてももうちょっとやり方があっただろ。

 「先生が過去に居た存在の略歴ごと消滅した」ことについて。ミカの話は長編部分の起承転結の起の端を書くぞと定めていたので、ミドリの話で起承転結の起を完成させようと思い、こういうオチにしました。「先生の存在を覚えているのは世界で自分だけ」という事実が彼女を追い詰めて、「先生」を描こうにも手につかず、結局描く理由に「先生」の存在が関わっていた——そう認めざるを得ないミドリの心境は考えただけでも恐ろしいし、残酷な描写を押し付けてしまったなと。なんなら最初はミドリが倒れてからすぐ幕間に移る予定でしたし。
 「切り取られたように記憶が存在しない」ことについては『マギアレコード 第一部』を参照にしていただければおおよそのイメージが掴めるかと。というかストーリーの筋は影響をモロに受けている気がするけどね。

ミユの話について

 正直一番難産でした。書いたスピードではそうでも無さそうに見えるかもしれませんが一生終わらんって言っているし。

 まずミユのパーソナリティについて。先述したかもしれませんが、ミユが他人とコミュニケーションをとるときの癖……みたいなものがどうしても引っかかっていて。どんどん自分の世界へと内向して、独りで結論づけてしまう……そういう節があって。それってどういう経験から来るのかな~と考えた結果、「幼い頃に体質のせいで家庭内でトラブルを受ける等の経験があった」「身についた性格がきっかけで離別を経験した」の二点に絞って書こう、と決めました。前者から。親の存在自体がそもそもキヴォトスにおいてはあやふやなので、本当はこうして明文化することは気が引けた……のですが、それでも書かなければという意思の上で書きました。後者は彼女の「ポロッと『相手がそれを言われてどう思うか』を考えないような言葉がたまに出てしまう」性格からです。某方の霞沢ミユさんの小説でも書かれていたように、彼女は明確に自分だけの世界を作っていて、彼女からしてみれば「周囲の健常な人間(=「他人から認知される」存在)」と距離を置いている。その「心の距離」がずっとある状態が続いているからこそ、「相手の気持ちになって考えて発言する」ことが(たまに)難しい場面が生まれてくるんじゃないか、と思いました。だから「(虐待を受けていた)カナちゃん」に自分自身を重ねてしまったり、今度は一周回って「誰かにやられた、とか……?」みたいな発言が出てきたりして。「相手と距離を取りながらコミュニケーションをとっている」というRABBITやFOX、ひいては先生との対話形式の源泉を考えると、どうしても「常に孤独で誰とも話さなかった」という結論に至るには尚早かなと思ったので、「常に仲のいい一人が存在して、自分と絡んでくれる」人物を置くことに決めました。でもこうして能書き垂れたことも誰かにとっては「解釈違いだ!!!」と成り得ない訳なので、そういう人は感想なり自作小説なり書いて送ってきてください。お待ちしてます。
 ちなみにここもお気に入りなので引用するんですけど、この描写はその最たる例じゃないかなと思います。

 誰かに忘れ去られることと同じくらい、私は人混みが苦手だった。
押され踏まれ、もみくちゃにされるから……というのは当たり前として、それ以上に「普通」と一括りにされるような「人」が、みんな違うことが怖かった。すれ違う人の一人一人にも生活があって、思想があって、時に愛する人がいる。誰として同じ人がいないことを、さも美しいことのように語る社会に、幼い頃から私はずっと疑問を隠しきれなかった。全てが全て同じ人ばかりなら、それはそれで気持ちが悪いかもしれないけれど……でも、あの無数の目と、それと同じ数程もある……いや、もしかしたら、人によっては思想なんてないのかもしれない。皮肉にも、この社会はそんなのでも生きていけるのだから。時々「あの人は私より何の不自由もなく生きてるんだ」なんて、道行く人に思ってしまえば、そこからはもう引き返せないぐらいに参ってしまう。それぐらいには、人混みのような人の多い場所が苦手だった。

『夢声影画』P.89

 『黒い切符と黒曜石のような片鱗』と『もう一人の霞沢ミユ』について。もう一人の『霞沢ミユ』を出したのは、「この辺りで長編の方の物語が動き始めるよ」という伏線と、『片鱗』がここから大事な働きし始めるよ~ってのを暗に伝えたかった節があります。

 ミユの意志を問う描写について。「放浪し、どこかへ消えて行ってしまいそうなミユ」が「居場所」と言えるような場所を手に入れて、その先は?ミユは本当にその居場所に疑問を抱かないのか?という意地悪な問いです。某方の小説ではない(奇しくも似たような結論に辿り着いてしまったのですが)ですけど、「他人に存在意義を預けている」(=カナちゃんのシーンでも「彼女が杭になっている」から、私がかろうじて認知される描写があったり)霞沢ミユという少女の回りから、もしその「他人」が消えてしまったら。あるいは彼女が手放したくないと思っている場所が、いつの間にか自分自身を蝕んでいたと気が付いた時に、彼女は逃げることができるのか、いやできるはずもない。そのことをもう一人の『霞沢ミユ』は問うています。結局先生ストップがかかって途切れてしまいますが、霞沢ミユという少女のことを掘り下げる何かしらのヒントには(自分専用ではありますが)なったのかなと思います。

 公園の語らいのシーンは、春(=晴る)の日の夜の透き通った空のきれいさだとか、そういうのを感じていただければ。

 ミユの決意と「先生が世界から消えた」ことに対しての彼女の反応について。元ネタになった楽曲『テロル』でも触れていますが、前半部の「なりたかった自分になれたか」に対するアンサーでもあり、カルバノグ二章を経た彼女ならではの芯の強さを発揮させたかった……ので、彼女は「覚えている」先生のことを追い始めるわけです。霞沢ミユが「他人にどう映っているか」を問うていることに対する背反的な行為で、「彼女だけが覚えているから貴方の影を追う」んです。それは彼女なりの過去との決別にほかならず、だからこそカナちゃんを遠巻きに観測した際に声をかげずにその場から離れる選択を取らせました。もしかしたら声をかけて「あの頃の自分とは違う」って言うこともできたでしょうが、そこは彼女なりにスモールステップで。

 「キヴォトスが燃えている」描写については特に語ることは無いかな、と。だって全て四章と『劇場』にて—— で解説しているので。

ユウカの話について

 ガチガチに語らないとは。

 結局悪い癖出て一生自分の話してる気がしますが、まぁ持てる力ほぼすべて使い切って書いたのでそれぐらいは許してほしい。

 ユウカの話は『銀河鉄道の夜(宮沢賢治)』がベースになりつつ、『独白と競争』の続編を重ねました。前半部分は現在(16歳)のユウカが客観的に、未来のユウカと先生のことを見る……そのため、どこまでも「早瀬ユウカの視点から見た世界」を徹底させています。情景描写一つとっても「○○の心象そのものなのだろう」とか。
 あとはここで『切符』が初めて、物語に干渉してくる「物体」として出てきます。蠍火、切符、は『銀河鉄道の夜』の引用ですが、「これでどこまでもいける(=一緒に逃げよう)」と語りかけるユウカに対して先生が「それは仕舞っておいて(=あなたと一緒に逃げることはできない。もう最期が近づいてきている)」と、『切符』の意味合いを改変したのは我ながらだと思います。ちなみに『切符』は物語の中にちょくちょく出てきますが、その本質は自分との対話であったり物語を引っ張っていく存在で会ったりします。ユウカが「これでどこまでもいける」というのはそれを知っての発言で、やろうと思えば(メタ的な話にはなりますが)四章の物語自体を書き換えることだって可能で。でもそうしなかったのは、ユウカがこれ以上先生と行動をするとして彼女が傷つかないようにするため、先生自身が終わりを悟ったため(この辺りは「弱い先生」像の影響があります)で。だから「物語を引っ張る存在」を仕舞わせて流れに任せよう——という形に収めました。そう考えると『大人のカード』みたいですね。我ながら。
 個人的に気に入った表現が多い気もします。特にこの辺り

 それはそれとして……おっとりした女性の言う通り、暮れの空は焼け落ちるように真っ赤に燃え、ぼうっと光っていた月はいつの間にか血を垂らしたように、紅色へと姿を変えていた。昼と夜の境が混濁して、やがて夜へと世界が反転していくと、砂金のような星々が姿を現す。やがてそれらは流星になって、『あの時』——空が赤く染まって、サンクトゥムタワーが崩壊した時——のように地上に降り注ぐ。やがて火の球は草原や森、田園の至る所に落ちて、夕焼けのオレンジを再現したかのように辺りを燃やしていく。列車はそんな光景を気にも留めず、黄金色の中をひたすらに走っていた。

P.114

 途端、車窓の外は何か透明なものが降りしきって、白くダイヤモンドのように車内の光を浴びて星彩のように煌めく。いつだったか、海の底ではプランクトンの結晶が雪のように降るという言葉を聞いたことがある。今まさに見ているのは、果たして海底か、それとも天上のどちらなのだろうか。

P.115

 特にP,115のこの部分はこの後の『『劇場』にて——』のくだりに対する伏線になっている&ユウカの博識な雰囲気を出すことができたのかなと思います。

 ユウカ(将来)に対しての声掛けについて。ここの流れは『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカムパネルラの二人だけになったシーンと重ねています。ユウカは目の前の自分自身に対して、「(先生を喪うことにきっと私は耐えられないだろうから)目の前の人物が自分でなくてよかった」と思ってしまいます。けれどその直後、「そう思ってしまう自分だからこそ目の前の自分のような未来をたどることになってしまうのだ」と気づいて顔を上げる。しかし眼前の自分自身は慈しみを帯びたような顔をしていて、はっきりと「自分のなりたい自分」を自覚する。その時点で『銀河鉄道の夜』パートの役割は終了して、世界が崩れ去る——ユウカ本で書いた内容は「人は弱く、醜く、愚かであるかもしれない。けれどもし、その中で差す光が一縷でもあるなら」というものです。美談と笑われるかもしれませんが、せめて物語の中ではそう言わせてください。だから「困難に立ち向かう英雄譚でなく、惜別がもたらしたのは私への気づきだった」って言葉がポンと飛び出してくるんです。

 ユウカが辿り着いた「草原と集落」について。『銀河鉄道の夜』における、ジョバンニの目覚めと喪失です。順を追って説明していきます。
 ユウカが走っているシーンについて。「記憶も肉体も全部消え去って」ってのは後の展開の伏線です。「脳の電気信号で~」というくだりも冒頭の「夢は~」って話に繋がります。それ以外は特に語りたいことも無いし「読んで考えてくれ」って感じなのでどんどん次行きます。
 次に集落について。「心と形容させてほしい」と前段落で言っており、その「心」と「言葉」で表象される世界……という設定にしてます。髪がボサボサであるはずなのにホームに居た時のまま、黒い切符のほかには何も持っていない、という条件から、ともすれば死後の世界を想像した人も少なくないかもしれません。「黒い切符」の役割は話した通りなので、それが導いた先の世界です。「心」が「言葉」で表される世界……というのは、奇抜な家々とか、「夏」の描写——夢のようで現実的な、不思議な境目の世界——の、電車の中での描写との比較でわかるかと。
 章終盤のカササギ(=『銀河鉄道の夜』シーンとのつながり)が飛び去るシーンは、ともすれば『君たちはどう生きるか』を髣髴とした人もいるかもしれません。まぁ「ユウカが川に落ちる」のも『銀河鉄道の夜』からですし。「切符」に物語の続きを描かせる力があるとするなら……と考えた方は鋭いと思います。

 余談ですが4章、書いている途中ずっとヨルシカの『夜行』を聴いていました。4章のタイトルにもある通りなので気づいた方もいらっしゃるかもしれません(なんなら普段定住してるMisskeyで呟いていましたし)。

アツコの話について

 正直ここまでやっと書いた感はありますが、秤アツコさんの話については自分から何かを語るより、アツコ本を読んで、アツコ本の解説noteを読んで、物語をなぞってほしいという気持ちが大きいので、それぞれの段落の花言葉と一言添えるのみに留めたいと思います。ちなみに日付の花は誕生花です。これを知っていると、サンアカ4で頒布した秤アツコさんの無配の意味が分かってくるかと思います。

  • 9月1日:キキョウ「永遠の愛」「誠実」「清楚」「従順」
    アツコ本のエピローグに添えた言葉と花です。秤アツコさんはシャーレに加入する10月18日までは、先生とほどほどの距離感を保っている、という前提を常に意識しています。

  • 9月5日:オミナエシ「美人」「はかない恋」「親切」
    「自分探しの旅に出ているサオリとはまだ顔を合わせていない」と告げることで、エデン条約を巡る騒動に区切りがついてからまだ時が経っていないことを示しています。アツコ本を土台にする上で守らなければならないため。花の名前を勉強し始める頃の話です。

  • 9月9日:シオン「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を思う」
    「先生のことを誰も覚えていない夢」を見た、ということでそれまでの短編との系統性を組み込んでいます。アツコ本然り、「夢」がキーワードになってくるためです。

  • 9月16日:リンドウ「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」
    「誠実」の花言葉を底にして書いています。「時間だけが過ぎ去っていくような気がして怖い」と思うのは、日記を書き始めたから(=日記を書いてこなかった過去との違い)であってほしい、と思いながら書きました。

  • 9月24日:ハギ「思案」「内気」「柔軟な精神」
    シャーレに来た時という話が出されて、シャーレと「大人」に対して一歩身構える描写を挿入しました。これによってアツコ本1章の話と繋がるようにしています。まぁエデン条約編を経て時間が少し経った頃なので、「大人」へのイメージが過去と比べてそう簡単に払拭されてしまうのは、と思った故のワンシーンです。

  • 9月30日:モンステラ「嬉しい便り」「壮大な計画」「深い関係」
    「嬉しい便り」でシャーレに加入できそう、ということが知らされます。後は上に書いたことと同じです。

  • 10月3日:カエデ「大切な思い出」「美しい変化」「遠慮」
    「怖い夢を見た」と言って2章、3章、4章の内容をなぞるように日記に記していきます。これも同じで、長編物語としての系統性を示すためです。花言葉とかみ合っているかと言われると疑問が残りますが……

  • 10月12日:ガーベラ「希望」「常に前進」
    徹夜した後、雨に濡れた朝焼けを見て、世界にはまだこんなに美しいと思える情景があったのか、と(心に少し余裕ができたこともあって)希望を見出すシーンです。このワンカットがあるからアツコ本のような世界を美しいと思えるアツコ像に繋がってくるのです。都合のいい妄想であることはさておき。あとは「ミサキやヒヨリも一緒に来れないか」みたいな話はアツコ本との繋がりです。

  • 10月18日:ベゴニア「片思い」「愛の告白」「親切」「幸福な日々」
    『夢画』の内容との系統性+シャーレ加入の話です。正直ここよりも、この後で全く同じ日付で書いたところで詳しく書きたいと思うので割愛。

  • 10月4日:サルビア「尊敬」「知恵」「良い家庭」「家族愛」
    リナについて思いを馳せるシーンです。何も知らない人に説明すると「孤児の少女リナ(5歳)を、先生の喪失から8年経った秤アツコさん(33歳)が引き取る」という話にアツコ本のエピローグはなるんですが、その前日譚のようなものです。ちなみに日付が前半部分と前後したのは10月18日に「同じ日にリナとお祝いをする」シーンがエピローグにあって、その日付と整合性を取るためです。

  • 10月11日:コリウス「かなわぬ恋」「善良な家風」「健康」
    リナを家に迎え入れた後の話です。アツコ本の内容を追う形で、より迫った主観で書いています。

  • 10月18日:ベゴニア「片思い」「愛の告白」「親切」「幸福な日々」
    先生について思いを馳せながら、リナにいつ打ち明けようかと考えるシーンです。この時点ですでには秤アツコさんの心は満たされていて、あとタイミングだけどうにか、というところまで来ています。前半部分はアツコ本の内容に沿うなら「約束」を取り付けるシーンで、ともすればベゴニアの花言葉と重なるところもあると感じた人もいるかもしれません。逆に後半部分では「幸福な日々」と思えるような書き方をしており、ベゴニアの花言葉が複数あることを最大限生かせたのかなと思います。

  • 11月17日:スターチス「変わらぬ心」「途絶えぬ記憶」
    秤アツコさんがリナに対して切り出すのに1か月もかかってしまったことを暗に示しつつ(語るには重い内容なので)、習慣化されたものに亡くなった先生のことを見出す、「途絶えぬ記憶」となる……アツコ本のエピローグの補完のような書き方をしています。

  • 11月22日:アングレカム「祈り」「いつまでもあなたと一緒」
    「夢に先生が出てきた」「先生の話す言葉は記憶の繰り返しであるかもしれないけれど、その言葉を胸に前に進み続ける」の二つを描きたくて書きました。意識はリナに行っているけれど、決して先生のことを忘れたわけではなくて。リナも同じ喪失を味わい、喪失している状態のことを普通と思ってしまっている、けれど秤アツコさんからしてみれば違うように目に映っていて。その残酷さとか、前を向いて歩く美しさとか、そういうのを表現できたのかなと思いました。

  • 11月30日:アツモリソウ「君を忘れない」
    追記、の部分は『アルジャーノンに花束を』から着想を得ました。

 あとは『手紙』の部分について。時期的にはアツコ本4章の先生を看取った後の話として記しています。あの『手紙』は天国にいる先生に向けて秤アツコさんが書いたものであり、「ヒヨリとミサキが来た」というのは先生を送り出す直前であることを示唆しています。ので、『手紙』は先生の入った棺の中に入れるものであることを想定して書いています。一応アツコ本の内容をダイジェストでは示していますが、ドライフラワーのしおりや図鑑の文脈的な意味、「あれから10年……先生と過ごしたのは7年になるのかな」の言葉の意味など、読んでいただいた人にはより鮮明に映ったのではないでしょうか。

長編部分のつなぎ『プロローグ』『幕間』『『劇場』にて——』『エピローグ』について

 この小説を語るにあたって、まずは文学構造の話をいくつかしたいと思います。

  • 作者の在処
     大前提として、三次元には「実在の作者」と「読み手」が存在します。しかし、「物語を描いた時点での作者」と「実在の作者」は同一ではなく(前者は「過去の作者」、つまり影法師であるため実在でない。下図「実在でない作者」)、物語を進行する語り手が「実在でない作者」である場合があります。これがすなわち三人称視点の小説、すなわち語り手全知全能視点を獲得している小説です。具体的に例えると、複数人の登場人物の心情や思考を書き連ねることができたり、時間・空間を跨いで描写することができたりします。一方で一人称視点の小説は、というと、登場人物の一名に即して物語が進行していくやつです。よくミステリなんかで出てくるやつですね。ユウカ本然りアツコ本然り群像劇然り、自分はこちらで書くことが多いです。このことを頭に入れておいていただけると、この後の解説がすんなり頭に入ってくるかと(?)思います。

大学の講義で配布されたものを借用。
  • 「文脈」と「多次元解釈」について
     「文学とは連綿と紡がれてきたテクストの織物の中の一反である」……テクスト論の提唱者、ロラン・バルト氏は「作者の死」(=「テクストの解釈のためには、作者の意図や作者の環境等を超越した読みが必要である(要約)」「読者の誕生は、幻想の作者像を破壊するところから始まる」)という概念を主張しました。
     簡単に説明すると、「完全オリジナルの文章や概念ってのはもう存在しないよ!なぜなら先人が出し尽くしたからね!」「『作品を書いた』実在の作者という概念は存在しない(=出力した時点で『実在しない過去の作者』が書いたものになるため)ので作者についてアレコレ考えながら解釈するのは無駄だぜ!」ってことです。

     次に、「多次元解釈」について。「ブルアカの世界がそもそも、数多のBAD END世界線の中で奇跡的に存続している世界の一つ」という考えを基にすると、「ブルアカのゲームストーリーオリジナルの世界」を軸に据え、そこから枝分かれした世界を「テクストの織物の中から生えてきた糸の紡がれた数々」と定義づけることができます。よって、我々の作り出す二次創作の世界や数多の『先生』の世界線を「多次元解釈」(=ブルアカ最終編でも言われていましたが)とも定義づけることができる……まぁそんな感じにとらえていただけると
     何言ってんだこいつって思った人に向けて端的に言えば「お前が作ったものもおれが作ったものも多次元解釈!本編とは関係ない創作の世界!!!そこに違いはないだろ!!!」ってことです。

 大体この二つを抑えておけばこの後の解説は何とかなります。本当か?

『プロローグ』
 「人称をぼかす」ことを特に意識しています。プロローグには、「私」や「自分」等の一人称が一切出てきません。これは三人称視点的(=「実在でない作者」。過去の筆者であり、読者である『先生』自身)な性質を仄めかしつつ、後述する『偽りの映画館の先生(=「実在でない作者)』と「ブルアカ本編へと戻る、オリジナルの先生」の分裂……への伏線も張っています。
 表題は『贋作』となっていますが、もちろんテーマ曲は『レプリカント / ヨルシカ』です。

『幕間Ⅰ・幕間Ⅱ』
 幕間Ⅰは「段々とこの物語の異質さとか特徴がわかってきたかな?」ってニッコリ笑顔で問いを投げかける章になっています。後は4章の「天上のようでも海底や地底のようでもあった」って描写をしているシーンに繋がるようにもなっています。後は「世界を燃やして回るなんて性格が悪すぎやしないか」って言ったり、結構感情的な部分があります。あとは書いた通りです。
 幕間ⅡはⅠより文章量多めにとっています。特にこの辺りの言い回しは結構自分でも攻めてるしロックだな~~~と思います。自分の書いたものに対して吐き捨てているんですから。

 それともう一つ、スクリーンを眺めていて気が付いたことがあった。どうやらこの脚本家はバッドエンドの物語しか好まないようだし、重々しい雰囲気で何かいい感じのことをやっておけばウケるとでも思っているらしい。貧相な言い回しと、ごくごくありふれたチープな物語の筋だ。多少感情的に書き殴っているのだろう、という感じは否めないが、私は映画を眺めてそう感じる。 

P.102

 「ノレアが物語に介入できる~」云々について。二次元間なのでこういうことが可能です。「物語を書き換える力」は「黒い切符」と共通で、前者は『偽りの映画館の先生』側、後者は『ブルアカの本編に戻ってくる先生』側、となっています。後はこれをどう読み解くかはあなた次第。
 「外部からの手助けが必要」というセリフと設定について。既存の設定や法則を破るには外部の存在を当てる必要がある……というのは最終編で「多次元解釈の防衛機構を破る」ためにやっていたような気がするので(記憶が曖昧。同調させて~みたいなのだったかもしれん)、そこになぞらえて書いたものとなってます。ただここは少し強引だったかな……と思う節があります。

『『劇場』にて —— Side:S・Side:T』
 まずSide:Sの解説に移る前に謝罪。書籍版ですが、ノンブルを振り間違えて4章のタイトル持ってきてしまってます。マジで申し訳ない。
 群像劇、と言いながらも、ここからは『彼女』という体で特定個人にならないように書いています。自分でもなんでこういう表現ができていたのか謎です。後は特に語りたいこともないのでとっとと次に移ります。
 Side:Tについて。ここからが本題です。ちなみにここは筆の進みが二番目に早かったです。もうニッコニコですよ。
 まずは見てわかりやすいカギカッコの使い分けから。『』←二重カッコでくくっているのは『偽の映画館』側の発言で、「」←カギカッコでくくっているのは「本編に戻ってくる」側の発言です。発言意外にも『私』と「私」で使い分けがされていたりします。ここら辺の遊びみたいなものはユウカ本でもやった気がしてます。
 次に、ノレアという人物について。「水色のロングの髪の少女」とまで言ってオリキャラ、という訳にはいかないのでまぁハイあの人です。後はノレアの元ネタについて。検索かければ出てくるので言うまでもないかな~とは思いますが、元ネタは『創世記』において、ノアの方舟を一度燃やした人物のことです。ノーレアとかノライアとも言われています。彼女は方舟に乗ることをノアから拒まれると、風を吹き付けて方舟を燃やしました。そのためノアは二隻目の方舟を作ることになるのですが……ということで、その逸話からとりました。「キヴォトス(方舟)を燃やした人物」という共通点から、彼女は彼女自身が負ったものの重さも含めたうえで自身のことをノレアと名乗ります。正直ここでこのネームを出すのはどうかと思いましたがまぁええか……と開き直りました。
 あとは上に書いた作家の有無とか文学のメタ論とかそういうのに忠実に沿ってひも解いていけば主張が読めてくるかなと思います。
 「それでも今のキヴォトスが美しいと思うから」という、『先生』の問いの対する答えについて。ミカの章と繋がっていて、「総じて人類に対してまだ希望を見捨てていない」という、『彼女』なりの見解が現れています。

『エピローグ』
 初稿の時点ではP.184の「本当にこれでよかったのですか?」から始まっていました。確か第三稿辺りで「ここら辺の補足が欲しい」と、表紙を描いてくれた妹氏に話を貰って「じゃあ書くか……」となって補足しました。4P分。と言っても内容書いているようで書いていませんが……
 前半部分は「ブルアカ本編に戻る先生」が主軸になっているので、「」←カギカッコが「先生と「彼女」」についています。
 後半部分について。『偽の劇場で消えていく先生』は本来『』←二重カッコになっているはずですが、ここは視点が切り替わっていて『劇場の先生』が一人称となって話が進んでいるため、その主観に合わせるために「」←カギカッコにしています。
 あとは、「映画の脚本みたいですね」とノレアが言うように、『偽の劇場の先生』が今際に遺したものが『夢声影画』となります。これをノレアに託して最期を悟るんですよね。『偽の先生』が。この辺りの構図はDeemoのストーリーや『君たちはどう生きるか』等の『夢と目覚め』がテーマの物語と少し似通っているかもしれません。
 他にもいろいろ言いたいことはありますけど考えられる余地を残しておくのも通だと思うのでこの辺りで。ちなみにテーマ曲は『君が大人になってしまう前に / UNISON SQUARE GARDEN』です。そのままです。

その他:「『夢声影画』の人称の曖昧さ」について

 ここまで解説しておいて今更感はありますが、人称の曖昧さについて触れておきたいと思います。そもそもの話、ブルアカにおいて、「先生=プレイヤー本人」という図式が前提としてあります。あとはずっと「先生というのは学校における教師のようなものでは無く(だってミカの絆ストでロボ職員が出てくるし)、むしろ『先を生きた大人』という意味合いで使われているのかな」とぼんやりと思っていたため、そのことについても触れました。なので、たとえ教師でなくとも「先を生きる大人」であれば(キヴォトスにおいては)誰でも先生となることができるのです。
 次に、そのテーマ性と曖昧さについて。先生という存在は、そもそも姿も性別も指定していないため、「特定個人」を指している訳ではありません(便利屋日誌やゲーム開発部の外伝漫画ではビジュアルが出ているものの)。なので、自分は今度それを逆手にとって書いてみました。ちなみに自分でも何を言っているのかわかりません。
 4章にて、ユウカが「記憶も肉体も消え去って、魂だけが残っているようで」という描写があります。そこがきっかけとなって「彼女」として、人称の曖昧な少女が『『劇場』にて —— Side:S』で誕生するのですが、正直な話表紙に出てくる5人以外の人物を当てはめてもいいんじゃないかと思っています。これはブルアカの物語が「数多の先生を一人としてとらえている」のに対して、「一人の少女の群像劇が複数重なって長編となり、その境目の短編で数多の不明瞭な存在として映している」んですよね。正直ここの構造考えてクッソ楽しかったです。理解されることは半ばあきらめています。

 とまぁ、『夢声影画』について語ることがあるとするなら大体こんな感じですかね。今ちなみに今23000字ちょいらしいです。アツコ本の解説noteより文字数重ねてます。狂気?

『後日譚 / 初声影画』について 簡単な解説とか

『後日譚』について

 ここからはサンアカ4で頒布した『後日譚 / 初声影画』について軽く触れたいと思います。
 Ⅰ:思想犯 / n-buna
 プロットの時点ではここで『夢声影画』のプロローグが『レプリカント』であることをちゃんと示そうか、迷っていました。確か書いている途中で「もしかしたら『昼鳶』かもしれんな……」となり、「いやこれ『神様のダンス』じゃね?」って一瞬迷ったんですが違うなと思い……結局『思想犯』に落ち着きました。いや本当に落ち着いているのか?
 独白しているのは『偽の劇場の先生』の過去であり、メモルミで公開した水着イズナのコピ本『八月某日、私はイズナに恋をした』とのつながりを示すために書いたものです。そっちのコピ本はPixivで無料公開してる&単体で読めるので、ぜひよろしければ。

 Ⅱ:後日譚 / じん
 『後日譚』というタイトルにして書くと決めた時点で選曲は決まっていました。『夢声影画』のアフターにするなら各章の主人公に対して先生との対話を入れたいと思い、こんな形になりました。顔も姿も曖昧、って所は「実在するけどしていない」『劇場』の名残みたいなものです。というか『後日譚』の曲はガワだけお借りしたので曲のエッセンスはほとんど残ってません。創作についてのあれこれぐらいで。何?
 プロット段階では各章の主人公のもとに先生が逢いに行く……って段落を挟む予定でしたが時間と労力と「別にこれ書かなくて良くね?」の空気になったので流れました。
 「大人になるってどういうこと?」ってテーマは様々な所でずっと書いてきていて(それこそ莉結先生のヒフミ合同の話とか)、それに対する答えも一貫しています。くどい様ですが回り回ってここでも書くことができたので満足です。

『初声影画』について

 これで『はっせいえいが』と読みます。『夢声影画(むせいえいが)』に対しての『初声影画(はっせいえいが)』。正直こっちの方が語りたいこと多いので少しだけ語ります。
 タイトルについて。発声映画(トーキー)は普段見てるような音声ありの映画のことで、最後の「詩」を諳(そら)んじることと掛けてタイトルを決めました。あれは「音楽に乗せられて歌われることのなかった」作品の残滓であり、同時に「音楽を辞めた」『偽の劇場の先生』(=水着イズナ本の先生)が遺したものです。『音のない映画』が『夢声影画(むせいえいが)』であるなら、『音のある(詩に現された)映画』は『初声影画(はっせいえいが)』だろう、と言う、なんかそういう感じのやつです。『彼』が音楽を辞めたことで、それまでの『彼』は死んだ。なので「きっとこの詩に音が乗る時が彼の命日なのだろう」という言葉が本編世界に戻る「先生」の口から出てくる訳で。『初』の漢字が入っているのも、まぁ作詞経験が初めてだったからってのに依拠します。
 ちなみにもうここまで来ると一次創作の域だと思うんですよね。それは一次でやれって言葉は本当はごもっともで〜〜〜。
 あとぶっちゃけた裏話をすると、本当は作曲までやるつもりでした。単純に自分に音楽を作るセンスが無すぎたのと、誰かに頼むのも違うよな……と思い断念したのですが。結局こうやって詩だけ残した形になりましたが、これはこれで良かったのかなー、とも思ったり。意味は後から生えてくる(カス)。

その他(シリーズを総括して)

モチーフ曲について

 ここからはほぼ雑念みたいな話を。
 上にも書きましたが、プロローグ、1章、2章、3章エピローグは曲が先に決まりました。元々『こういう話を書きたい』ってのが曲と合わせて決まってたパターンです。逆に言えば4章、5章は最後まで曲とタイトルを何に当てはめるか悩んでいました。曲よりも先に内容が書き終わってから後付けで決めた形です。同じことが『後日譚 / 初声影画』でも起こり、『思想犯』も後付けでした。
 最終的にユウカ本の話とかみ合って何とかまとまりましたが、本来4章でやった『A WILL』は6章(『『劇場』にて——』が元々6章になる予定でした)で書くつもりでした。
 5章の話。最初は同じ梶浦由記さんの曲で『Parade』にする予定で、最後までタイトルと抱き合わせで悩んだ挙句の『アフターエデン』と『Eden』でした。タイトルは『Eden』の入ったアルバムの名前から拝借しています。没案は『彼方へのパレード』『Parade / Fiction Junction』です。
 選曲は「自分に影響を与えたアーティストや曲」です。ぜひ原曲も聴いていただけたら。

「名義を捨てる」ことについて

 だいぶ荒はあったにせよ、「これ書いて死ぬ」って言うレベルのものは考えて書けたのかなとは思います。『夢声影画』『後日譚 / 初声影画』はこの名義の遺作とも呼べる……いや、そう呼ぶつもりで書きました。
 ちなみにこんな文章量書いているのでそれはもうたくさん感想貰ったんだろ?と思われるかもしれませんが、「冬コミの新刊を(観測できる範囲で)読んでいただき、感想を送って頂いた方」は片手で数えられるほどです(読んでいただいて&感想下さってありがとうございます。励みになってます)。多分同年代の世間一般の大学生はおれが冬コミの原稿書いたりnote書いたりしてる時間とか労力使って遊び行ったり恋愛してたりするんだと思うと破壊したくなります。〇してくれ。
 あとはまぁ名義を捨てる理由は『夢声影画』あとがきや『後日譚 / 初声影画』本編でも語った通りです。
 ちなみにですが、合同等に誘っていただいた場合は(厚意を無下にするようなことはしないので)普通にこちらの名義で参加させていただくつもりでいます。あくまで「自分から即売会にこの名義で出たり書いたりしないよ」というだけなので。

 まぁこんなこと書いてますが実際のところ来年度どうなるかわからないし、それこそもし書くことができるぐらいの余裕があったら書きたいな~とも思っているので、そん時は「またなんかこいつ書いてるよ……」という目で見ていただけたら。

 それでは。またどこかで。

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