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日記

客観視したとしてもそれは他人の目ではないんでほんとうの自分のことはわからない。逐一具体例を羅列するのも疲れてしまうのだけれども私にはどこかずれているところがあるらしく、それが原因だろう、時々いない人のように扱われてしまうことがある。ずれているくせにそういうところには気がつくしとても傷ついてしまうのである。コンビニの弁当。開かない自動ドア。薄い壁、顔も知らない隣の住人が立てる生活音。誰とも話さず終わる一日。延々と流れ続ける深夜の通販番組。生きている心地がしない。ずっと自分のことを幽霊のように思っていた。

横浜に住んでよかった。
街の人はおおらかでやさしい、という意識すらなく差別という概念すらないように見える。とにかく、ずれている私に対して"普通に"接してくれた。商店街で買い物をして花屋のおばちゃんにまけてもらったりする。マンションの住人たちとちょっとした談笑する。いない人のように扱われることなく、きちんと対応してもらえた。初めて生きている心地がした。しかし社会に再び戻って街の人以外と関わるとそれは通用しないのだと知った。

30歳になってもまだ普通や当たり前という誰かの言葉を呪縛のように感じて苦しむとは思っていなかった。明日の朝もきっと雨だろう、雨の降り続ける朝はずっと目を覚ますことなく眠っていたい。

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