限界試行 | エッセイ


自分から頑張れる、ということはとても幸せなことだと思います。さらに、そこから限界に挑めた、という感覚を得られることはより一層幸せなことだと思います。

この間、珍しくそういうことがありました。

私は、スポーツ用の自転車を趣味で乗っていて、年に数回か、自転車で山を登る大会だったり、景色のいいところをみんなで長距離走るイベントだったりに参加しています。

先日は山を登る大会があり、行ってきました。

ただ、近頃頑張れず、運動できていなかったので半年以上ぶりの自転車かつ運動という、「出るなよ」という声が聞こえてきそうな状況でした。

実際最後にある激坂がとてもしんどく、本当に限界!という状況でなんとか登りきりました。

体もびっくりしたみたいで、ゴールして自転車を降りると、吐いてしまいました。こんなことははじめてだったので、それだけ頑張れたのかもしれないと考え、自分としては充足感を得ました。

他にも、私は中学受験をしたのですが、塾で受験に向けた最後の夏に地元から離れた土地で勉強合宿が行われました。そこでは希望者は夜遅くまで勉強でき、朝も早くから、勉強詰めの数日間を送ることができます。当時勉強が好きだったので、最大限まで勉強しました。

ここでも、帰りのバスで疲労のあまり急激に酔い吐きました。これもここまで追い込めた、と充足感を得た記憶があります。

ただ、ここまで追い込めることは本当に少なく、何も疑問を持つことなく全力を捧げることができることって本当に貴重だと思います。

仕事も頑張りたいけど、頑張る方向性を間違えないようにすることは難しい。これは会社にとってというより自分にとって。
いつ会社に見限られるか、会社が不調になるか分からないので会社を軸にしすぎるのは怖いと思うからです。

頑張れているときは安心していられる。
生きてるという感覚を求める人間だからこそ、ここの充足感が必要なのだと思います。
頑張れそう、という感覚を大事に育てて、いくつかの充足感の記憶を死ぬときの財産のひとつとしたい、と思います。

この考え方はどうなんでしょう。あまりこの先に平和がなさそうな考えな気もしている…。

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