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5話 初めて楽器店に行く ②

「で、どうしますか、ハーモニカのKeyは?」
その声は、少しずつ鋭くなって行く。僕がいつまでも迷っているのに、店員さんは露骨にいらだって来ていた。小さなハーモニカの横を指差して、そこに書かれている『アルファベット』を選ぶように、僕に詰め寄って来る。
A、C、Gなど、何かの記号が、ハーモニカの黒地のプラスチック部分の横面に金の文字で書かれている。
(このアルファベットの違いには、何か意味があるのだろうか?)選ばなければ買えないようだけれど、僕にはそれが何の事だか全く分からなかった。

よく見ればAm、Cmなど、小さく「m」がついているものもあった。僕は授業で英語は習っていたものの、そっちも全くのからっきしだった。
店員さんの苛立つ態度が声の大きさにも現れ始め、僕をさらに追い込んで行く。けれど僕はまだどれを選べばいいのか決めかねていた。なにより、この買物は自分の1ヶ月分の小遣い全額なのだから。

(Am、なんだろう?あっ、Aって、アキラじゃない?、デビルマンのアキラだよ!!ならmはマエダとか?なんだ、そうだ、そうなんだ!!)
僕は、急に理解した。
(あっ、選べってそういう事か?なんだよ、それならそうと早く言ってよね)
店員さんに向かい、僕は笑顔で言った。

「僕はひろせてつや、なので、TかHでお願いします」

僕はハーモニカの横に書かれたアルファベットを「イニシャルの表記」だと、勘違いをしたのだ。当時はイニシャルのキーホルダーをカバンに下げたり、好きな女の子の名前をイニシャルに変えて話すのが流行っていた。

店員さんはめんどくさそうに、ため息交じりで返して来る。
「そんなKeyはありませんよ。AからGの中で選んでください」
これには、僕はまるで慌てはしなかった。別に自分のイニシャル通りのものが欲しい訳でもないし、できればTやHよりZとかの方が、マジンガーZのように強いロボットっぽくて好みだったからだ。
僕は箱に並んでいたAからGの表記が付いた商品の中で、比較的強そうなイメージのGを選んだ。

(小さなmは「前田」とか「牧野」とかなのだろうか?)なぜ小さな「m」がついている場合とついていない場合の違いがあるのか気になったけれど、イライラしている店員さんにわざわざ訪ねてみる勇気はなかった。
店員さんはその小さなテンホールズハーモニカが入った箱をドカっと置き、中から僕が選んだGを探し出す。その扱いがちょっと雑だったのが、とても印象的だった。

これが、僕が自分の意志で、初めて買った楽器だった。これでもう小遣いも吹っ飛んだし、しばらくは何も買えない。菓子は友達の家で食わせてもらえるにしても、漫画を描くためのペン先やスクリーントーンなどの画材の出費はしばらく無理になった。

駅から家までの長い道のりを小走りで帰り、ドキドキしながら部屋に閉じこもる。
空腹だったけれど今はそれどころではないと、僕は一刻を争うようにビニールの買い物袋を破くように開ける。
そのまま慌てて黒い小箱を開け、ころりと転がり出て来た中身のハーモニカ本体を確認する。
楽器店ではよく見られなかったし、触るのは初めてだったので、その想像以上の小ささと、ドロップの空き缶のような軽さに驚く。
全財産に近い2500円という大金を払ったにしては、プラモなどとは比べ物にならないくらい安っぽく感じる。それが、よくわからない物を衝動買いした事実をより重々しく感じさせ、ひとり部屋で息を呑んだ。

テンホールズハーモニカの横面には確かに「G」と書いてある。「ガンダムみたいだ」とその判断に改めて満足する。そしてしげしげとみつめ、指先で凹凸を確認して行く。
(これを長渕 剛は持っていたんだ。本当に小さいんだな。外人のヒューイ・ルイスでなくても、手にすっぽりと隠れる訳だ)

まずハーモニカを手に包み込み、部屋の洋服ダンスの扉を開き、内側にある兄が髪をとかすために使っている鏡の前に初めて立つ。
ハーモニカを両手に持ちながら、パタパタと手を開いたり閉じたりして長渕 剛のモノマネを楽しんでみる。頭の中には、ハーモニカを学校で披露してみんなにちやほやされる、得意気な自分の姿があった。
その持ち方は、小学校の時に習った両手で持つ子供っぽい、トウモロコシを食べるようなスタイルではなく、どことなく男っぽさがあるような気がした。
小さく書かれたGのアルファベットがなんだかカッコ良く見える。(やっぱりGを選んで正解だったな)と、僕は自分の判断が誇らしかった。

ひとしきりポーズのマネを楽しんだ後、ようやく僕は、この手の中にあるものが「楽器」であること思い出し、音を出してみる事にする。
そっと口を付ける。一瞬(最初は1回洗った方がいいのかな?)と迷うものの、時すでに遅しで、もうくわえてしまっていた。

手に持った大きさは小さいのに、くわえた感じだと、自分が漫画を描く時に首から下げている学校のハーモニカより、少し分厚めな感じがした。

そして、自分の出したテンホールズハーモニカの音が、期待していたものとはかなり違ったものである事に、愕然とするのだった。

つづく


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