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113話 『大親方』

仕事でしばらくは安定した収入が見込めるようになった気持ちの余裕から、僕は自分のハーモニカにもお金を掛けるようになって行った。当時初めて聞いた「カントリーチューニング」という特殊な配列のテンホールズハーモニカがあって、それを全てのKeyで買い揃える事にしたのだ。
バンドメンバーの1人が海外からの楽器の仕入れの仕事をしていて、その中でトンボ社の海外向け商品「リー・オスカーモデル」を扱っていたのだ。
身内としてのかなりの値引きで、僕は交換パーツ一式と、さらに「ナチュラルマイナー」というこれまた特殊配列も含めて、全Keyを買い揃える事にした。荷物はカートンで受け取り、一通り使うまででも数週間、さらにそれを演奏で使いこなせるまでには、その後1年ほど掛かった。

お金を使い始めたのは楽器にだけではない。この時期、僕はBarのブルースセッション通いを再開し始める。
すでに定期的なライブも続けていたので、「今後の店開拓」と称し、バンドの営業活動という名目で店を回り始めた。
夜ならばそれなりに動ける日もあったし、久しぶりにちゃんとお金を稼げていて、しばらくはそれが続くという状況に、僕はすっかり浮かれまくっていたのだ。
店のセッションに参加すると、すぐに参加バンドや活動を聞かれ、誰とでも好意的な関係を作る事ができた。当時参加していたバンドはいくつかあり、それぞれ方向性も違っていたので、結果的にどのバンドを売り込んでも良かった。
あまりにもすんなりとライブのブッキングが決まって行くので、僕は自分の企画仕事の方も、これほど順調だったらなとつくづく思えたほどだ。

こうして企画業と音楽の、共に密度の濃い一年が過ぎて行った。
僕は親方衆の25点の試作品の完成に立ち会い、最後の展示会の飾り付けまでを終えた。
行政の予算を使う事もあって、全てはコンセプト商品のような範囲まででとどまった。おかげで、まだ市場性までは見込めないまでも、業界の活性化を目指すには公的でわかりやすい試作品群となった。
またその展示会を数か所の会場に展開させられた事で、会場を貸してくれた公共施設の関係者や来訪者などから新たな僕の仕事の人脈の方も広がり、その後の自分側の営業活動の起爆剤にもできた。

一段落した後、親方の1人が「ここまでは良かった。後はこれを俺らが活かせるかだ」とつぶやくように言った。僕としては、これからの流れに自分も立ち会えるのか、それとも言葉通り、後は自分達でやって行くという事なのかが、自分のこれからを左右するとても重要な部分だった。

陶磁器の町での最後の仕事を終えた1ヶ月ほど後に、僕はやや遅れて、自分の仕事の総評を聞く事になった。
その日、請求書などの事務的な都合で、僕は陶磁器の工業組合を訪ねた。事務所に隣接する直売店には数ヶ所の展示会から戻って来たばかりの試作品群が並んでいた。
そこにたたずみ、なんとも言えない顔でそれを眺めるかなりご高齢の男性がいた。それは親方衆の上に構える、この町の「大親方」だった。偶然にも彼の来訪時に、僕は居合わせたのだ。
組合の事務方に紹介され、僕は始めて自己紹介をする。
大親方は「息子から聞いている」という短めの言葉の後、「遊ぶのは良い。ただ、どれも商売にはならんな」と、それだけを言い、去って行った。

当時、陶磁器は中国生産に切り替わり、6割以下のコストで輸入されていた。一刻を争う状況の中、必要なのはもっと確かな一歩だったのだ。
この数年前に「パスタ皿」という注文が来始めた時に、その微妙な深さ加減から、当時誰も注文を受けなかったところ、唯一それを引き受けた別の産地に、今までにない新たなる仕事がどっと押し寄せたらしい。そのような画期的な新しい方針を、大親方は期待していたのだ。
当然僕では力不足だろうし、いかにも高度成長期に町を大きくした1人の言葉という重みがあった。
それだけが総評で、僕はもう、自分がお役御免なのだと思い知らされた。

翌年も、陶磁器の町の関係者達からの仕事は、少しずつだけれど単発的に続いていてはくれた。
親方筋の紹介で、知人の会社の新製品展開案の叩き台を提案させてもらったり、地域広報のイラストなどを始め、打ち合わせに必要な資料を作ったりと、その依頼はさまざまだった。
そのおかげで、忙しくてしょうがないという程ではなかったものの、自分から新しいお得意先を必死に探す事まではしないで済むような、安泰の一年を過ごす事ができていた。

けれど、後になると、そんな一年が僕にとっては良くないものになってしまっていた。
たまたまそんな当たり年が偶然にあったというだけで、その翌々年はまたアポすら取れなくなり、元の暇人に逆戻りしてしまったのだ。

つづく


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