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33話 専門学校にて

高校を卒業した僕は、東京のデザイン系専門学校へと通学する事になった。学校の生徒の年齢は幅広く、同級生には30代後半の人もいるほどだった。また、出身もさまざまで、文字通り日本中から集まったデザイナーを目指す人達と、学びを共にする事になる訳だ。
最初はデッサンや粘土造形など基礎的な授業が続き、徐々に専門的な分野の授業になり、広告などのビジュアルデザイン、ファッションデザイン、住宅関係のスペースデザイン、そして僕が選ぶ事になる、工業製品などのプロダクトデザインへと進路が分かれて行く。

実際にデザインの授業が始まっても、まだ僕は自分の選んだ進路に関して、正直真剣さが足りなかった。それはクラスメイトと話していれば歴然としていた。生徒の誰もがデザインの事ばかりを考え、足しげく展覧会やシンポジウムに通ったり専門誌を買ったり、デザインについての会話ばかりを夢中でしていたのに、僕はそれらにはまるで興味が沸かなかったからだ。
僕は漫画家デビューを諦めてからは、得意な絵を描く分野で何かしらの仕事に就くためというくらいの安易な気持ちで、それに最も近いと感じたこの専門学校を選んだため、デザインという専門特化された部分にまでは、さほどの興味は無かったのだ。
そのため「この作品のこのなめらかな手触りの部分が洗練されている」とか「この色使いを見た時は全身が震え、今までの自分の価値観が崩れ去った」なんていう事を熱く語るクラスメイト達を前に(うぁ~、そんな事まで考えてないよ)という自分の本音を、いかに見透かされずにいられるか必死だった。
先生方は僕がいかに「デザインを学ぶ気が無かったか」をするどく見抜いていたので、僕は授業ではよく追い詰められていた。

例えば「食材」の中で何かのモチーフを決めて、それを粘土などの素材で作り着彩まで施し、現物と並べ、先生がその両方を見分けられないレベルだったら合格、見分けられたら再提出という課題があった。物の観察と再現という鍛錬の授業だ。
課題提出日には、生徒達は様々なモチーフの本物と自分がそっくりに作った作品を並べて先生に見せる。クラスメイト達の中で高得点をとった作品は今でも鮮明に覚えている。
卵を割った中身を選んだ生徒の作品は、透明な部分を様々なボンドの組み合わせで作って表現していて、本物とまるで見分けがつかなかった。また煮干しを選んだ生徒は、魚の皮の乾き具合を見事に彫刻し、銀の塗料などを組み合わせた彩色の仕上がりは、まるで本物の煮干しにしか見えなかった。このような生徒達はもちろん合格だった。物の観察、それの再現、ともに表現者として十分と言う訳だ。

審査は厳しく、再提出の生徒は半数を軽く超え、その厳しさに半泣き状態の人もいたほどだ。特に果物を選んだ生徒は、当日までに劣化してしまう為、写真とともに提出した者が多くいたのに対して、それは管理不十分という点で容赦なくNGにされていた。この課題に対して劣化するものを選ぶ段階で失格という事らしい。

そんな中、僕はうずらの卵をモチーフに選んだ。当時のうずらの卵は10個入りで透明なプラケースにワンパックで売られており、それをセット商品として作ったのだ。けれど僕が作ったのはその中で一個だけだった。つまり9個は本物なのだ。もちろんプラケースもそのまま現物を使った。
本物と見分けがつかなければ合格という事だったので、10分の1の確率を見誤った先生が、半ば笑いながらやむをえず僕を合格にする。当然、他の生徒からは非難ごうごうで、「ずるい」だの「卑怯」だのとさんざん罵られた。

けれど先生の方はその手を考えなかった自分の落ち度だと言い、今後の出題時に注意事項として加えると言いつつ、僕の作品を参考作品として撮影し、記録として残す事を決めた。僕はそんなつもりではなかったのだけれど、クラスメイトからは「一休さんのようなとんちで勝った」と酷評をされ、しばらくは悪口のかっこうの的になってしまった。
当然、先生からは「正しく学べ」と笑いながらも、お叱りを受ける事となった。

デザインという分野が「ユーモア」に重きを置くという点からも、僕はさまざまな課題で、こういう想定外の「裏技」によって、課題としては一応合格という結果になる事が多かった。もちろん僕の方には悪気は全くないのだけれど、特例のように高得点をもらう事が何度か続いた為、学校ではよくわからない注目を集るようになる。

デザインの専門学校というのは、普通の学校とはあらゆる面で違っていて、時には正しさより、ユニークさや個性の強さに重きが置かれる結果となる。業界的にもかなりの我の強さと自己主張が必要な分野だけあって、学校では生徒同士が常にお互いの個性をぶつけ合うようになるのは自然な事だった。

やがて誰もが、授業以外でもなんとか目立って、頭一つ分上に立とうとする流れが出て来る。そうなると様々な特技や自慢を披露するようになり、当たり前のようにそこに趣味として「楽器」の話題が入って来る。
僕も何気なく「趣味でハーモニカを吹くよ」という話をすると、その楽器的な意外性からかかなり大きな反応があって驚いた。特に目立ちたくて言った訳ではなかったのだけれど、クラスメイトの一人に「どうせ嘘だろ?目立ちたがり屋の広瀬らしい」となんくせをつけられて腹が立ち、翌日には学校にテンホールズハーモニカを持って行き、さり気なく休み時間に披露してみせた。

それは昼休みを使ってのちょっとしたお遊びで、別に目にものをみせてやれというつもりでもなかった。ただ数人の前で軽く吹いて見せて「ほら、本当に吹けるでしょう?」というくらいの軽いものだった。けれど、それが大きな反応になってしまった。
僕が持って行ったのが「ハーモニカ」ではなく、小さな「テンホールズハーモニカ」だった事がかなりのインパクトとなったようだ。その上、本格的なベンドを生かしたブルージーなサウンドを出したせいで、ほんの少し「ポワ~ン」と吹いただけだというのに、僕の印象は決定的なものとなった。
今までの「奇をてらったウケ狙いの小ずるい奴」とか「真正面からデザインに向かい合っていないダメな奴」という酷評が一転し「実は深みのある人物ではないか」という、ありがたい誤解を受けるのだ。

それからは僕の評価は「小さなハーモニカを格好良く吹く」生徒となった。これにより、自分の方が目立つ、目立たないという戦いの中にいるクラスメイトからは、さらに目の敵のようにされて行くのだけれど、反対に僕に好意的になってくれる生徒も出て来るようになる。そして驚いた事に、僕に「ハーモニカを教えて欲しい」と言うのだ。

それは課題が佳境に入り、学校に泊まり込むようになる頃だった。学校には研磨するためのグラインダーや、塗料をスプレー状に吹き付けるためのコンプレッサーといった大型の機械がそろっていた。それらを使わねば完成度を高められない作業や、自宅ではシンナー等を使えない生徒の為もあって、夜の教室を作業場として開放していたのだった。
機械や工具類は順番待ちになるのもあるし、多くの作業に「乾燥」という待ち時間がもれなくついて来るので、誰もが手持ち無沙汰になり、毎晩のように会話に花が咲いていた。僕もそのような深夜作業組の常連だったので、その作業の乾燥時間を利用して、ハーモニカを習いたいというクラスメイトが現れる。

高校の頃「ハーモニカを買うためにアドバイスが欲しい」と言われた事はあったけれど、教えてと言われたのはこれが初めてだった。僕は今までハーモニカの話を聞いてくれる人すらいなかったので、本当に嬉しくて、これを快く受ける事した。

僕の作業が終わるのを待っているクラスメイト達が急かすように言う。
「いい?終わった?やろうやろう、広瀬、ハーモニカやろう!」
教室の明かりが届く範囲で、なるべく遠くまで皆で移動する。深夜の東京の空き地が、その頃の僕のレッスン会場だった。
楽器の持ち方、息の入れ方当たりからアドバイスして行き、そして誰もが習いたがる、あの音にぶち当たる。
「え~と、こんな感じだっけ?ベンド?どうよ、広瀬」
誰もが出したいのがテンホールズハーモニカのベンドサウンドだった。けれどこればかりはそう簡単にできる訳がない。僕だって特訓の日々の末、やっとできるようになったのだから。

ある程度アドバイスをした後は、僕はまた作業場へと戻る。すると遠くにベンドを練習している音がかすかに聴こえる。
戻って来た僕に、今度は教室にいる数人のクラスメイトが言う。
「おう、お疲れ、ハーモニカの先生。ここでもさ、なんか吹いてよ。なぁ、なんかさ、疲れが取れるような渋いやつをさぁ~」
「そうそう、広瀬大先生!!なんか超シブいやつをさぁ~。1発、プ~って、頼むよ!!」
僕はわざと少し面倒くさそうに「ポワ~ン」とやってみせる。それは曲という程のものではなく、数十秒もないダラダラとしたブルースのフレーズだ。
遠くに見える原宿方面の都会の夜景とブルースの響き。なかなか良い組み合わせだ。こんな風に僕は「教える」と「聴かせる」の両方で、学校での泊まり込み作業を盛り上げる一人となった。

ある時、泊まり込み組のひとりが僕に言う。
「そうだ、広瀬君、これ聴いてみてよ。こういうの、好きなんじゃないかと思ってさ」
手渡されたのは1本のカセットテープだった。教室に置いてあった誰かのラジカセで流してみると、それはテンホールズハーモニカの入ったブルースだった。
僕はその音に飛びついた。映画「クロスロード」でブルースを知り、その後ハーモニカの教則テープで聴いて以来の、本物のブルースの曲だった。夢中でかぶりつくように聴く僕に、そのクラスメイトは続けた。
「そういうの好き?広瀬君てさ、御茶ノ水とか、やっぱよく行くの?ほら、ブルースのレコードとかってさ、あそこらへんにしか売って無いじゃん」
僕はこの何気ない会話から、東京での動き方を教えてもらうのだった。

つづく


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