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61話 僕が失くしたもの

ホコ天の件からしばらく経ち、ポンコツといえど、ようやく職場にも慣れて来た頃、最初のボーナスが支給される。バブル絶頂期だったので、前月にも予定にない臨時ボーナスが支給されていた。全くの異常な状況だけれど、当時はどの会社でもそんなものだったらしい。
僕は専門学校卒なので額面は低かったものの、バブルでの浮かれ具合からか、どうせまたもらえるだろうと気前良く全額銀行から引き出し、バスと電車の両方の定期券を、割引価格になるからと3ヶ月分で買うと、残りを財布に入れっぱなしにしていた。

課の朝礼が済み、その日の仕事が始ってすぐ、僕はトイレに行った。用を済ませた後、咳込んでしまい、トイレを流しながら、こみ上げてきたツバを吐こうと何の気なしに便器に向かいかがみ込んだ。その瞬間に、ツバと一緒に胸に入れておいた財布が会社の水洗トイレに落ちてしまった。全く朝からついてないと、僕はうなだれた。
ところが(あ~あ、ついてないな)では済まなかった。水流が強かったからか、財布はくるくると回転しながら見事に流れてしまい、トイレには何も残っていなかったのだ。
僕は想像を遥かに越える出来事に、ショックでしばらくは何が起こったのか解らなかったほどだ。

我に返った僕はすぐに便器に手を突っ込み、届く範囲まで手を伸ばしてみるものの、うねる形の水道管では、どうする事もできなかった。
慌てふためき課に戻り、取り乱しながらも上司に緊急の報告をし、総務部、ビル管理部へと連絡を回してもらい、結果としてビル全体の水道を一旦止めてもらうまでの事態に発展する。
結局、それでも財布は戻っては来ず、ボーナスの全額に加え、買ったばかりの長期の定期券まで失ってしまい、さすがの大損失に、僕は地べたにへたり込み涙を流した。ペーパードライバーだったので、たまたま免許証などは持ち歩いていなかったのは不幸中の幸いだった。
この不祥事のおかげで「広瀬という新入社員は超ドジ」という評判が他の部署まで含め一気に広まり、いつまでも消えなかった。おそらくそのせいもあり他の同期よりも小間使いのような期間が長く続く事になってしまい、そのおかげで自分の立ち位置は、次の年の後輩が入って来るまでは最下位と確定し、残念な形で落ち着きを見せたのだった。

実はこのしょうもない失敗で、僕は財布と共に、当時最も大切だったはずの物も同時に失くしていたのだ。それは凄腕ギタリストのバンドのドラマーの電話番号が書かれた小さなメモ紙だ。僕はこの事が持つ意味を、この時はまだ考えもしなかった。

定期代の損失が心底こたえた僕は、なんとか少しでもその分を浮かせようと考え、総務部に届けを出し、社員寮への申込みをする事にした。するとちょうど転勤する社員が出たため寮に空き部屋ができたと連絡があり、僕は実家から会社の社員寮へと引っ越す事になった。
社員の福利厚生として、会社の社員寮では電気・ガス代込みで月々8000円の部屋代で済むようになる。
おかげで少し前のトイレに流れた全財産もなんとかなりそうなメドも立ち、翌月にはあっさりと落ち込みから開放された。
会社への行き帰りにも、誰かしら他の課の社員達と一緒、寮に帰っても両隣に先輩が住んでいるという生活が始まったけれど、気を使うかと言うとそうでもなかった。
玩具メーカーの社員という事もあり、根っからのヲタクが多く、顔なじみになってしまうと上下こそあれ全員が同じ趣味を持つ仲間のようなものだった。それこそ、いつまでもアニメや漫画の話に花が咲き、まるで学生に戻ったような気分だった。

仕事は日を追うごとに忙しさを増して行くものの、残業が当たり前になり、夜は会社持ちで残業食の出前を食べ、深夜になれば会社の交通費でタクシーで帰れた。もともと社員寮組の相乗りが多く、会社の許可も下りやすかった。そんな風にして、生活費を全く気にしなくても済むような状況になり、やがては自分が今いくらお金を持っているのかすらも、あまり考えなくなって行った。
気がつけば、たかだか入社3ヶ月ほどだと言うのに、僕は完全に会社と一体になっていた。朝から晩までヲタクの延長線上のような話に明け暮れ、寮でも会社でも同じような顔ぶれの中で過ごしているのだ。
お金の事をまるで考えずにいられる生活にすっかり気がゆるみ、僕はまるで給料をもらえる龍宮城にいるような日々に、心から満足していた。

音楽の話をする同僚はいなかったので、ハーモニカの事はなかなか切り出せなかったけれど、憧れのハーモニカ奏者の八木のぶおさんが使っていた9800円もする最高級品ホーナー社の「マイスタークラス」を、思い立って一気に3本も買い揃えたりもした。
寮の個室はしっかりと防音が効いていたので、深夜の練習でも小さな音であれば問題は無さそうだった。ただ、週末のセッションの機会が無くなってしまったため、もはや練習をする理由もなく、テレビを観ながらベンドの仕方を忘れていないかどうかを、ポワ~ンとやってみるくらいの気の抜けたものだった。
そんな吹き方でもさすがにマイスタークラスは最高級のハーモニカ、他に替えがたい最高の音色がいつでも僕を満足させてくれる。頭の中では(次のボーナスで残りも買い揃え、全12Key(キー)をマイスタークラスにするのもいいな)なんて、ぼんやりと考えていたほどだった。
ライブハウスに行く時間もCDを買いに行く時間もないのだから、高級なハーモニカの出費くらいまるで贅沢にはならなかった。どこまで浪費しても、この社員寮にさえいられれば、お金に困る事はないのだから。万が一、またトイレに財布を流してしまったとしても。

そんな余裕の中、ある日、僕はふとホコ天での事を改めて振り返った。もし、もう1曲多く演奏に参加していて、あの大乱闘に自分も巻き込まれていたら、一体どうなっていただろうと。誰もケガしたり捕まったりしていなかったのはなによりだったけれど、それでも自分は仕事中の昼休みにハーモニカを吹きに行ってトラブルに巻き込まれ、午後の売り場での接客をすっぽかしましたなんて、決して許されるはずはない。それ以降、全てが変わり、今の自分のゆとりのある生活は無かったのだ。

次々に想像が膨らみ、自分が会社の業務日報を書いている光景が浮かぶ。「昼休みに、売り場近くの場所で日本人と外国人との乱闘に巻き込まれ、警察の取り調べを受ける」と書く自分。
僕は心底ゾッとした。あまり大事と思ってはいなかったけれど、改めて文章にしてみればとんでもない事件ではないか。当然上司に事情を詳細に聞かれ、査問委員会にかけられるのは必至だ。ましてや配属されて間もない新入社員という立場なのだから。
自分は本当に運が良かった。というより、もともと考えが浅はか過ぎたのだ。大手企業に入り、下っ端とはいえ誰もがうらやむような仕事にありつけたというのに、音楽の道でやっていこうとしているプロのバンドマン達と一緒になって、自分だけ気楽に演奏ができて「あ~、今日も楽しかったなぁ」で、済むはずなど無かったのだ。そもそもまるで住む世界が違うのだから。

僕の新しい財布には、新しい定期券と多めのお札が入っていた。前と違うのは、電話番号が書かれたメモ紙が無いだけだ。けれど、僕はそれが自分にとって良かったのだとまで思うようになっていた。
彼らはライブハウスが活動の軸なので、ホコ天が無くなろうとバンドが解散してしまおうと、個々では演奏を続けているはずだ。探せばすぐに見つけられ、会う事もできるだろう。しばらくすれば、メンバーが変わっても、また一緒にブルースをセッションできる機会だってあるかもしれない。けれど、僕はそうしようとはしなかった。あのメモ紙がなくなったのが、まるで自然な事のように感じていたのだ。

それだけじゃない。かつてはあれほど情熱を掛けていたアンプでのハーモニカ演奏自体もあっさりと諦めてしまい、他の機会を探そうとすらしなかった。最高級なハーモニカをひとり部屋の中でポワ~ンとやるだけで、十分に満足していたのだ。
かつては周囲に笑われながら、ブルースマン、ポール・バターフィールドをマネたブラウンがかったメガネを掛けたり、ハーモニカのソロを邪魔された事で友人と絶縁までするほどの情熱があったというのに。
それが、僕の就職が決まってからの、たった数ヶ月間の出来事だった。

それからも仕事は常に忙しく、当たり前のように帰りが深夜になる日々は続いた。僕は特に深く考える事もなく、社員寮の仲間達と共に出勤し、経費で残業の出前を食べ、帰りは寮の誰かとタクシーで帰る日々を送り続けた。

そんな僕に、再びテンホールズへの情熱を思い出させてくれる機会が訪れる。
ホコ天以外の、なんの事のない都会の道端で、ひとりで演奏をしている人を見掛けるのだ。  

つづく


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