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57話 ハチ公の前で③

月明りの中、駅前のブルースセッション演奏はいつまでも続き、人だかりは途絶える事がなかった。
ハーモニカを吹く僕の前には、いつの間にか飲み物や差し入れが置かれていた。これは「演奏がウケている」という意味だ。
それなのに、まだ路上演奏での常識を知らない僕は、(なんだよ、お供えかよ。演奏中は動けないと思ってバカにしてさ。まったく、お地蔵さまじゃないんだから)などと、見当違いな事で腹を立てていた。
その内に、バーボン系のお酒がビンのまま回って来る。誰もがブルースマンらしくストレートで回し飲みして行き、やがて僕の元へと届く。
まだそんなに飲めなかった僕は、密かに舌でビンをふさぎ、荒々しい表情で必死に飲んだフリをする。その様子を笑われてしまったので、酒に弱いのがバレてしまったかもしれないけれど、おかげでなんだか、このいかついマッチョな集団に入れた気がした。

集団の最前列には取り巻きの女の子達が陣取り続け、いつまでも場所を譲る事はない。中には遠巻きに観ている観客に帽子を回して、お金を集め始める子までいた。
これは見物人に「チップを下さい」という係なのだけれど、何も知らない僕は、それをセッション演奏でアンプなどを使う「参加費」のようなものだと勘違いし「自分も払わなきゃ」と財布を出す。そんなところを、またみんなに笑われてしまう。そうやって失敗しながら、僕はいちいち学ぶのだった。

やがて、その夜の強制終了が宣言される。
「はい、もう帰りなさい。今日は終わり。ねっ、機材をしまって下さい。終わりですよ」
メガフォンから届くそれは、きちんと曲の終わりに合わせた警察官達の声だった。この日のセッションは、とりあえずこれで解散という訳だ。それは実に自然なエンディングだった。

ルーズな感じのブルースを演奏し続けたせいか、僕は疲労感でぐったりとしていた。それでいて、例えようもない充実感を味わってもいた。
借りていたマイクをバンドメンバー達へ返した後、急にマイクの重みが消え、手が軽く感じるのが奇妙でおかしかった。地べたに座り続けていたお尻が、思い出したかのようにジーンとした痛みを伝えて来る。
ギターの彼はボスらしく片付けを他の人に任せ、僕のところへ歩いて来ると、少しばかり晴れやかな顔で言う。
「じゃあ、またな。来週も、ここに来いよな」
そう言い、そのままスクランブル交差点の雑踏の中に消えて行った。それはまるで、イケメンが主役のベタな映画のラストシーンのようだった。

残りの人達は路上ライブの余韻の中、後片付けを始める。それを手伝おうとする僕に(いえいえ、とんでもない)といった恐縮ぶりを見せる。どうやら、僕はセッションでの演奏面で尊敬をされたらしい。
片付けをぼんやり眺めていると、さっきまでドラムを叩いていたサングラスに長髪を後ろで束ねたヒゲ面の人が近付いて来て、小さな紙のメモを差し出す。
そこには電話番号が書いてあった。
ドラムの彼は、僕に軽く会釈をすると、「日曜の昼間、ホコ天(歩行者天国)で演奏やってますんで、そっちも来て下さい」そう言ってニヤリと笑った。怖い見た目の割には礼儀正しい人のようだった。
こうして、僕の初めての路上でのブルース演奏は幕を閉じた。

僕は帰りの電車に揺られながら、ポケットの中の今日買ったばかりのマリンバンドの木の肌触りを、指先でいつまでも楽しんでいた。
頭には、次々に先程までの演奏での名場面が、コマ切れのように浮かんでは消え、まるでスライド上映を眺めているようだった。

なんて事のない1日の、ただの学校の帰り道だったのに、意外な事から夢が実現したのが信じられなかった。
初めて出会った人達と演奏ができる「ブルース」という音楽と、今、手の中にある小さなテンホールズハーモニカの存在に圧倒される。

次第に都会の灯りが減って行き、やがて薄暗さの中に、地元千葉ののどかな景色がぼんやりと見えて来ても、僕のドキドキは収まろうとしなかった。

つづく


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