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127話 それって常識?①

いよいよセッションが始まる時間となった。ピアニストとドラマーが、店の隅に設けられた段差のないステージへと入って来る。最後に入って来た黒ズクメは、壁にズシリと立て掛けられていた大きなウッドベースを素早く肩に降ろし、その横に置かれたマイクを片手にとると、セッションイベントの開始前に演奏するホスト・トリオによる演奏曲のタイトルと作曲者の名前だけを告げ、そのまま聞こえないほど静かなカウントをうち始める。
ブルースの店だと、この段階で常連の誰かしらが「ヘ~イ♫」とか「ヒュ~!」とかいった歓声を入れイベントを盛り上げようとするものだけれど、そういった連帯意識などは全く無い店で、コンサートホールで演るクラシックコンサートのような静けさの中で、ホストのトリオでのインストゥルメンタル演奏が始まった。

曲が演奏されている間、僕はその後のセッションの開始を待たず、もう帰りたい気持ちで一杯だった。店に入るのにはさすがに覚悟がいったものの、「ブルースセッション経験者歓迎」というチラシのうたい文句をそのまま鵜呑みにし、どこかに自分が歓迎されるのではという淡い期待があったのだ。
そこへ来ていきなりの手痛い洗礼を受けた上、自分では読めもしない楽譜を人数分コピーし持参するのが当たり前というジャズセッションでの常識を目の当たりにし、もはやモチベーションなど保てるはずもなく、どこかに「そもそも好きで来たんじゃないのに」というくらいの、矛盾した気持ちすら生まれ始めていた。自分の周りのみんなが口をそろえて「ジャズをやるような奴らは」と言うのも無理はなかった。それを身を持って、今の今思い知ったのだ。

僕がすっかり意気消沈しながらただぼんやりとしている間に、気がつけば、どこからが始まりでどこが終わりなのかもわからないような演奏曲は終わっていて、再びマイクを持った黒ズクメが、セッション演奏参加者の名前を、無機質に読み上げていた。
名前を呼ばれた参加者の女性が、訓練された隊員のように素早くそこへ加わると、慌ただしくコピーした楽譜を配り始める。そして店は奇妙な静けさに包まれた。それはまるで部隊の全員に作戦が書かれた地図が配られ、緊張の中で、黒ズクメ隊長の司令を待っている、そんな感じだった。なんて統制の取れた集まりなのだろう。その空気からは、これから楽しい事が起こるなんて到底思えない。

「広瀬さん、どうでしょう、今のホストの方々が演奏されたような曲は?」
話し掛けて来た相席のギタリストの声で、僕は我に返った。彼は僕らのセッション演奏曲の当たりをつけようとしてくれているようだった。けれど今みたいな曲と言われても、僕は聴いてもいなかったので何も言う事はできなかった。しいてあげれば、「どうでも良かった」とでも言ってやりたいくらいだったけれど、さすがにそうも言えないので、とりあえず適当に取り繕うしかなかった。
「はぁ、すみません。全く、何がなにやらという感じで。やっぱり僕なんかでは、ジャズは無理なのかもしれません」
彼はにこやかな表情を崩さぬまま、僕のボヤキにうんうんとうなずきながら(そうですよね、誰でも最初はそんな風に感じてしまいますよね)と、声には出さず仕草で繰り返しているようだった。その感じはあまりにも自然で、多くの後輩達を見て来た熟練者の落ち着きを感じさせる。誰でも今の僕のようにジャズの演奏を前にビビりまくり、こんな複雑で訳のわからない音楽に入れる訳はないと縮み上がるのだろう。しばらくの沈黙が続き、いつまでも言葉の出ない僕に、彼は細心の注意を払った柔らかさで言った。
「どうでしょうね、広瀬さん。ここは『ジー・ベイビー』とかのバラードで、渋めに行ってみては?」
彼の記憶では、何でもこの曲をどこかのハーピストがブルースハープらしく演奏しているのを聴いた事があり、その曲を僕にも勧めて来たのだ。テンホールズの第一人者ウィーピングハープ妹尾さんのアルバムに収録された事でハーモニカ奏者の間でも話題となり、当時は多くのハーピストが真似て演奏していたし、自分でもライブやブルースセッションで何度か吹いた経験があった曲だった。

僕はこの提案に乗る事にした。そして、当たり前にいつもセッション演奏の相手にする質問をしてみた。
「お気遣い、ありがとうございます。という事は、歌も歌われるんですか?」
すると、彼はキョトンとした顔で、やや笑い混じりに言葉を返して来る。
「えっ、歌?私がですか?いえいえ、私は歌いませんけど。広瀬さんって、歌の方も演られるんですか?」
僕も笑い混じりに言葉を返す。
「とんでもない。私は歌いませんよ。えっ?じゃあ、ボーカルの方もセッションメンバーに加えるんですか?」
すると、彼はやや強い調子で返して来た。
「いえいえ。ボーカルを入れる必要はありませんよ。だって、広瀬さんのハーモニカの『ソロ』ですから」
僕は(えっ、ソロって?ハーモニカのアドリブソロの?)と聞き返そうとしたところで、さすがに言葉上の行き違いに気が付いた。彼の言っている「ソロ」とは「ハーモニカの部分的な出番の事」ではなく「ハーモニカがセッション演奏の中心となる役割」という意味なのだ。1人で演奏する弾き語りなどと違い、バンド関係者は「ソロ」という言葉を使う状況がない。そのため「ソロ」という言葉は、曲の中の「自分の出番」として使うのが常識だ。けれどクラシックを始め一般的な音楽では「ソロ」と言えば、演奏の主役でありリーダーの事なのだ。
僕はこの行き違いに気が付くと同時に、それどころではない、もう一つの大変な話の行き違いにも気付かされた。「ボーカルを入れる必要がない」という事は、ハーモニカが「ソロ(中心)」であるという事。つまり「インストゥルメンタル(歌の入らない曲)」でのセッション演奏を意味するのだ。

「え~っ、と、待って下さいよ。って事はですね、つまりは、僕がハーモニカのインストを演るって事になるんですか?」
ギターの彼は(この人、何言ってるの?)みたいな感じで、大きく目を見開いていた。僕はあまりの想定外な流れに、半笑いで言った。
「いやぁ~、『ジー・ベイビー』をハーモニカのインストでなんて、聴いた事ないですよ。そんなの、絶対にシラケちゃって、場が持たないでしょう?」
この言葉に相手は、慌てふためくように言った。
「いえいえ、持ちますよ。最高じゃないですか。えっ?というか、ひょっとして、インストって、あまり演奏されないんでしょうかね。ブルースの方々は?」

この話に僕は絶句し、しばらくは次の言葉が見つからないでいた。これは本当に仕方のない行き違いだった。ブルースは歌と共に広がって行った音楽なので、インスト演奏はごく稀だ。そのため、ボーカル兼務のハーモニカ奏者はとても多い。たとえ僕でなくたって、この行き違いは避けられなかったはずだ。

これは僕にとってはとんでもない大誤算だった。今まで僕が演奏をして来たようなブルースやロックのような音楽では、インストゥルメンタルでの演奏はほとんどと言って良いほど無い。あったとしても「音出し」のようなオープニングアクトとしての演奏だろう。そのため、ハーモニカの僕はいつもどこかに「ある部分だけを担当する」という脇役の気楽さがあった。けれど、ジャズにはボーカルが入る曲と同じくらいの比率でインストゥルメンタルの演奏があるのだから、ハーモニカで参加するからにはインストの場合だってあるのだ。考えてみれば黒ズクメ達もインストだったけれど、僕はそれは最初の曲だからで「ホストメンバー達の音出しのようなもの」だからインストなのだとばかり思っていた。という事は、これから僕は、リーダーとしてインストの演奏を仕切らなければならない訳か。インスト自体にもさほど慣れてはいないし、ましてやリーダー役なんて、長い演奏歴の中でも数える程しか演った事が無かったのだ。ギタリストの彼は、あまりにうろたえいつまでも押し黙る僕を見兼ねてか、少し説得するような身の乗り出し方をする。
「いいんですよ、場が持たなくても。そいういうものなんですよ、ジャズって音楽は。私は聴きたいですよ。広瀬さんのブルージーな『ジー・ベイビー』を」
それはとても落ち着きがあり、やわらかくたしなめられるような不思議な感覚だった。かつてブルースセッションで僕の面倒をみてくれた「お世話焼きのジャガ」に、品性と落ち着きが加わり、ゆっくりとしゃべるようになった感じの、紳士的な接し方だった。

そこへ、高圧的で不快な声が響く。
「どうです?ハーモニカの人。今みたいなのは演れそう?無理?手も足も出ない?」
気遣いのカケラも無いからかいのような物言いは、ステージの黒ズクメだった。すでに最初の方の演奏曲が終わっていたようで、また僕は聴き逃していたのだった。
けれど言われっぱなしは嫌なので、「あのう、曲を決めました。一応。はい。ははは」と返してみた。腹は立てども、そんな風に弱気に返すのがせいぜいだった。
すると黒ズクメはその曲名も聞かずに、すぐに相席のギタリストの方へ質問をする。
「それ、スタンダードだよね?楽譜ある?」
彼は素早く、手で「オーケー」をしてみせる。黒ズクメは何のリアクションもせず、そのまま次のセットへと入って行った。それは無駄のない作業そのものだった。他の参加者の誰もが、そのやりとりを気にもしていない。
僕は再び怒りでわなわなと震え始めて来た。
(なんだよ、この黒ズクメ野郎、曲名すら聞かないのか?フン、楽譜があればそれでいいのかよ。だいたい「ジー・ベイビー」なんて、16小節の繰り返しだろ。楽譜見てやるような曲でもないだろうが)
全ての曲を暗記してから演奏するのが当たり前だった僕は、この楽譜への執着が理解できなかった。ブルースやフォーク、ロックなども同様で、楽譜を見ながら演奏する人なんて本当に珍しいくらいだ。セッションの時にボーカルが自分だけ歌詞カードを見たりはするけど、簡単な打ち合わせで出来るような曲を選ぶのは、当たり前のセッション・マナーのはずではないか。

さらに僕は、自分の世界とは全く異なる世界にいるのだと気が付かされる事になった。
次のボーカルの参加者も、さっきと同様にメンバー全員に楽譜を配っていた。ドラムにまでくまなく楽譜を配るのを見ていて、(え~、ドラムにも楽譜って配るのか?一体何が書いてあるんだろう?)と、僕は不思議に思っていた。
その時だった。楽譜を渡されたホストメンバー同士のやりとりの中で、「へぇ~、こんな曲あるんだね」という会話が、ちらっと聞こえて来たのだ。僕はこの言葉に度肝を抜かれた。
(え?知らない曲って事?嘘?ひょっとして、完全な初見って事?全く知らない曲を、いきなり演るって事なの?本番の初見で?何の準備も無しに演るって事?ぶっつけで?)
全員が知らない曲を初見で演奏する、それは僕にとってかなりの衝撃だった。おそらく、全員が知っている曲を演奏する事にはなるのだけれど、一応目の前に楽譜を置いておくだけなのだろうと思っていたのだ。もはやマナーうんぬんの話ではない。そもそもはそれが出来て当たり前の人達の集まりなのだ。
もちろんプロなら楽譜に強いはずだ。クラシックなどでは幼少の頃から親しんでいるツールなので、びっしりと書き込まれた真っ黒な楽譜をひと目で頭に入れられるなんて話を聞いた事があった。けれど、僕らがやっているようなバンド系の音楽は、そういうものとは無縁であるように勝手に思い込んでいたのだ。どこかで、自分達の世界では、そのスキルは不要なはずだと。

僕は眼の前にいる人達が、自分が知る世界の住人でない事を初めて思い知らされた。頭の中には、テレビののど自慢番組で、小さなボックス席に収まった20人がかりのビッグバンドのメンバーが、回って来た楽譜を笑いながら覗き込む様子が思い浮かんだ。ホストメンバーの彼らはそういったプロ達なのだ。渡された瞬間にそれが頭に入り、もう弾けるようになっているのだ。そのための楽譜、そのための、ドラムの人まで含めた、人数分の楽譜の準備なのだ。
僕は視野が狭過ぎた。バンドなんて稼げていればそれでプロ。売れなければバイトをしながら細々食いつなぐだけの事だと、勝手に決めつけていたのだ。でもそれは、好きな曲を好きなようにやっているような一部のスター集団だけの話で、本来音楽の世界で生きているのなら楽譜を読めて当たり前、渡されてすぐ演れて当たり前なのだろう。自分の活動よりも、人のために演奏をする事の方が、遥かに仕事になるのだろうから。
僕は愕然としたまま、ただぼんやりとステージを眺めていた。それこそ、もう今から曲を聴くどころの騒ぎではなかった。自分の中の根本が、完全に崩れた瞬間だった。この場には、楽譜が読めない人は、自分だけしかいないのだ。

「では広瀬さん、行きましょうか。広瀬さんのソロで『ジー・ベイビー』、演りましょう」
彼の言葉で、僕はまた我に返った。気がつけば、すでに前のセットでのセッションは終わっており、僕らの順番が回って来ていたのだ。
ステージには黒ズクメが半笑いの顔で立っていた。ギタリストの彼は素早くステージに入り、慣れた調子でギターアンプをセットをしながら、「スタンダード譜面集」に載っている「ジー・ベイビー」のページ数を伝えている。
脱力したままステージにたどり着いた僕には、まるで夢の中の景色のように全てがぼんやりと見えていた。
ステージでは、楽譜の読めない僕以外のメンバーで、テキパキとセッションの打ち合わせが進んで行く。そうは言っても譜面集には16小節の部分しか載っていないので、黒ズクメ、ピアノ、ドラムの3人はひと目見るだけで(はいはい、了解、もういいよ)と、手でその譜面集を引っ込めるようにやってみせ、そのまま閉じてしまった。
ギターの彼だけは自分の前の譜面立てに譜面集を開いて置くと、慣れた調子で手早くギターのシールド(電気コード)をアンプに挿し、いくつも並んだツマミを両手のそれぞれの指で微妙に回しながら音量と音色を調整し始める。そのスピードはアマチュアのものとは思えないほど手慣れたもので、まるで職人が仕事の準備をしているようだった。30秒と待たせる事なく、安定させた出音で手首だけで軽くコードトーンを鳴らし始める。その音は控え目で、いかにもジャズといった大人っぽい複雑なコードの響きだった。
僕も自分の演奏準備に入る。ステージの中央のマイクスタンドにボーカル用のマイクがあるので、それでハーモニカを吹く事になる。まだ楽器で音は出さず、指で軽くトンとやってみると、リバーブなどは入っておらず生音をそのままただ大きくしたようなストレートなセッティングだった。ボーカル用というよりトーク用に近いくらいのセッティングなので、ハーモニカの吹き方で音を長めに響かせる工夫が必要になる。

演奏KeyはG、僕はいつも通りブルース特有のスタイルのセカンドポジション奏法で吹く事にした。インストとして歌の部分を吹いた事はなかったけれど、もともとこの曲ではメロディーをアレンジしたアドリブを吹いて来たので、それをアレンジを控えめに演ればいいだろう。オブリガートはギターの彼にお願いするとして、アドリブソロはピアノとギターの両方に任せれば良い訳か。最後にまた僕が歌の部分を吹いてまとめる事になるのだけれど、テンホールズ奏者としては自由度が限られる分、最も魅力の出しづらい構成になってしまった。まるで、かつて自分の勉強で聴いて来た「スタンダードジャズ名曲集」のような優等生的なダサさだ。それでも、とにかく今はこの「ジー・ベイビー」を演り切るしかない。誰もが演るように、ブルージーなバラードをしっかり吹き上げて、まずはそれからなのだ。

僕は、眼の前のマイクをもう一度指で軽くトントンとやり、その響きを確認するだけで、結局、演奏前には一音も出してみないまま、参加者が座る客席を眺めていた。

つづく

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