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58話 めまぐるしい日々①

僕はデザインの専門学校を卒業し、無事に大手の玩具メーカーへと就職した。当時、日本はバブル経済の絶頂期。学校の冬休みを利用して、卒業記念にアメリカのパックツアーに1人で参加し、慌ただしく就職用にと短期集中の合宿で運転免許をとると、僕は3月の卒業式を待たず、2月から始まる会社の合宿研修に参加した。

最初の1週間は地方の人里離れた旅館に閉じ込められ、監禁状態での研修となる。訳の解らぬまま「歩き方」から「言葉遣い」までを会社色に染められ、個性を捨て、大手の社員らしくなるよう叩き込まれる。この時代はどこの企業もそうだったろうけれど、コンプライアンスなどお構い無しの環境で、不眠不休の意識もうろう状態の中で洗脳のようなセミナーを受け、強制的に「会社人間」にさせられていた。後になり聞いた話では、なんでも会社は、1人につき100万円もの研修費用を使っていたらしい。特に影響されやすかった僕は同期の誰よりも強く洗脳され、自分が「エリート」の仲間入りをしたかのように誤解をし始める。

洗脳合宿が終わると、今度は東京の本社へと場所を変え、さまざまな職種に分かれての研修が始まる。「会社の歴史」「玩具業界の専門用語」「知的所有権などの法律知識」「企業の機密保持義務」「金銭にまつわるガイドライン」等々、社員としての一般教養だ。
続いて商品を生み出すための知識として「マーケティング」や「プランニング」、商品を量産するための製造物の「安全面・量産面の知識」。最後に、社員としての福利厚生の説明や社宅や社内預金などに関する説明会と、どこまでも続いて行く。まるで新しい国に来たような強烈な生活環境の変化を感じ、少し前のアメリカ旅行などすぐに色あせてしまうほどだった。
その後、商品を作るための「試作機械の実地訓練」や「プレゼンテーションの練習」などが慌ただしく始まるのだけれど、僕だけはそれがもともと専門分野であったために、同期の中で密かにひと足早く一息つけた感じがしていた。

ここでようやくプラベートな時間とゆとりが持て、実に久しぶりとなるハーモニカライフをエンジョイし始める。
ハチ公の前でのセッション演奏を実現して以来、僕は夜の渋谷駅前だけでなく、昼の原宿のホコ天(歩行者天国)の路上演奏にも飛び入りをして、半ば仲間のような顔をしながらブルースセッションに入れてもらい、ハーモニカの即興演奏をさせてもらっていた。

ちょうど「イカ天『イカすバンド天国』」という深夜のテレビ番組が大人気で、空前のバンドブームの頃だった。週末はホコ天の端から端まで、多くのバンドが横並びになり、お互いの音が重なり合うのもお構い無しで、なんとか東京でひと花咲かせようと宣伝の為の路上ライブを、朝から暗くなるまでひっきりなしに行っていた。それぞれのバンドのファン達もその周りを囲み、熱い声援や陣地の取り合いに精を出していた。
僕がセッション演奏をさせてもらっていたそのブルースバンドは、原宿のホコ天でのパフォーマンスでトレーラーの荷台を使った専用ステージまで用意していて、どのバンドよりも多くの集客を実現していた。
凄腕ギタリストの彼のところへ行き、彼と目が合えば、すぐに「今日は持ってるか?」と聞かれ、僕はポケットから数本のテンホールズハーモニカを取り出してみせる。
すると言葉もなく僕用に空いているマイクが素早く回って来て、演奏する曲のKeyだけを伝えられ、特に会話も無く、そのままブルースセッションに即興演奏で加わる事ができた。

僕にある程度の演奏力があったからというのもあるのだろうけれど、そもそもブルースという音楽が、セッション演奏で腕を磨いて行くというジャンル特性を持っていたからなのだと思う。
とはいえ、誰でも参加OKというようなほがらかなものではなく、そこには暗黙のルールがある。基本的には腕くらべのようなもので、参加する側には「道場破り」のような覚悟が必要だ。つまり演奏の腕が悪ければお役御免、次いでもっと腕の良い人が現れればそこで勝負し、アドリブなどの腕で勝てれば残れるというような過酷なルールだ。まるで映画「クロスロード」の世界そのものだ。
バンドは「受け入れる側」「腕前を判断する側」なので、当然立場は上という事になる。

何組かのバンドで仕切っていたその場所に集まる観客達は、ほとんどがこのバンドのファンで、飛び入りの常連だった僕を「謎の風来坊」のように、ひいき目に見てくれていたようだ。それは音色に哀愁のあるテンホールズ奏者としてはピッタリの扱われ方だった。
たまに加わりに行くブルースセッションという場では、誰一人、大手の会社員としての僕の顔を知らない。黙っていればこれからも「謎の風来坊」として特別扱いをしてくれるかもしれないという想いで、僕はその機会を何よりも大切にしていた。

けれど、ハーモニカで念願だったブルースの演奏ができるという喜びは、驚くほどすぐに慣れに変わって行く。社会人になり、洗脳のようなセミナーで急に芽生えた「エリート意識」から、自分に自信を持ち過ぎてしまったためだ。そのせいで、今度はどこかに「参加ができて当たり前の、特別な自分」という勘違いに酔いしれ始める。
さらには、中学では先生公認の仲間外れ、高校では漫画家も挫折、専門学校ではどの集団にも煙たがられるというかつての孤独な日々ですら、それが「実は特別な存在だったからなんだ」と自ら記憶の組み換えまでするようになり、僕は「高校デビュー」ならぬ「就職デビュー」を都合良くキメ込んだのだ。

それからしばらくの間は、自分の悪い部分を省みる事など全く無くなり、「自分は特別なんだ」という万能感の中で、遅れて来たような青春を思いっきり謳歌していた。その頃の僕のハーモニカ演奏の姿は、まるでナルシストの見本のようだったかもしれない。
もちろん2つの顔を使い分け、会社では何事もなかったかのように、同期に混じって大人しく真面目に研修を受ける日々を続けるのだった。

1ヶ月を越える長い研修が終わり、ようやく正式な辞令を受け、実際の職場に配属されると、この状況は一変する。
自分は「エリートの仲間入りをした」という喜びもつかの間、今度は初めての縦社会の中で、自分はただの「ポンコツ」だと思い知らされる、修行のような日々に入るのだ。

東京にある6階建ての横に長い古いビル。それぞれのフロアで誰もが一刻を争うように慌ただしく働きつつも、毎日のアフターファイブの予定を作るため、会社の電話から伸びたくるくるコードをめいっぱいまで引き伸ばし、首と肩で大きな受話器をはさみながら、システム手帳を片手に私的な電話を繰り返している。そんなどこか浮かれた光景が、当たり前の時代だった。
3階のフロアに配属された僕の当時の仕事は「お茶くみ」と「コピー」と、日々変わる「雑用」だ。あの監禁されながらの「強制的な意識改革研修」など、一体なんの意味があったのだろうか。変わったのは自分の中で芽生えた、一瞬の「エリート意識」だけだった。

「おい、広瀬ぇ~。お前は一体、いくつ漢字を間違えれば気が済むんだよ。だいたいお前、そんなに給料もらってないんだから、こんな毎回じゃ、大変だろうがぁ~」
業務日報の漢字間違いを注意され、僕は1つ間違えるたびに100円ずつの罰金を払わされていた。1部のレポートにつき最大で5000円を超えた事さえあった。まだパワハラなど、お構い無しの時代ならではだ。
「すみません。もう勘弁して下さいよ。さすがに給料無くなっちゃいますって」
ひと月前の万能感などどこへやら。ヘコヘコと頭を下げるしかない日々が始まった。初めての縦社会がバブル経済真っ只中というのもあり、社会の基本構造の全てがお金、自分の周りの誰もがそんな感じだった。

ポンコツとしての毎日。急激な変化に、今度はへこみまくって行く自分を少しだけ支えていたのは、土日の路上でのセッション演奏の機会だけだった。彼らが受け入れてくれたのは会社に入る前なので、僕がエリートだろうがポンコツだろうが、まるで関係はないのだ。
僕は今まで以上に、次にセッション演奏に参加できる土日の機会を、心待ちにするようになる。

つづく


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